odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

トーマス・マン「ファウスト博士 下」(岩波文庫)-1 18世紀からの教養市民層の終わり

 ドイツの作曲家アドリアン・レーヴェルキューン(1885-1940)がどういう人物であるかというと、「静かで、無口で重苦しい気分の人」であり、随所にみられる行動性向は、うぬぼれ・まじめ・謙虚・社交嫌い・お世辞嫌いであり、いっぽうでパロディ好き・嘲笑するというところ。19世紀の「天才」作曲家にみられる奇矯な行動や発言というのはまずみられない。モーツァルトベートーヴェンワーグナーシューマンブルックナーのような社会になじめず人との付き合いが難しく、何をするかわからない人ではないのだ。

 偏頭痛や胃弱でしょっちゅう寝込むのではあるが、体調と気分がよくなると、彼は一心不乱に創作し、(はた目には)迷うところがない。創作の点ではアドリアンは勤勉だった(集中力が度を越えることもしょっちゅうあったようだ)。勤勉であるのは芸術やドイツ精神への義務感があるよう。このような行動性向を説明するには、「天才」概念よりも、ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のほうが役に立つと思った。とはいえ、この浩瀚で大部な書籍を読んだことはないので、解説書を参照する。
大塚久雄「社会科学における人間」(岩波新書) 1977年
山之内靖「マックス・ヴェーバー入門」(岩波新書) 1997年
 アドリアンルター派プロテスタントなので、プロテスタンティズムの非合理的な禁欲と職業義務への精神を共有していた。この教えの反権威主義と民主主義、感覚文化の拒否、帰属主義ではなく業績主義による人の評価もアドリアンの行動性向や作品傾向にみられる。彼の創案になる12音技法も功利主義や合理主義が徹底し、人は信仰のバランスシートを日々作って自己評価をするというプロテスタンティズムに由来するとみることができる(実際に12音技法を創案したシェーンベルクユダヤ人。生まれはカソリック。12音技法の確立後にプロテスタントに改宗し、アメリカ亡命後ユダヤ教を研究するという遍歴なので、12音技法が宗教由来とするのは勇み足だろう)。

ヨーゼフ・マティアス・ハウアー(シェーンベルクより早く12音技法を作った「忘れられた」作曲家)

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 こうしてみると、アドリアンはドイツの象徴かメタファーである。彼の「静かで、無口で重苦しい気分」はドイツ精神そのものが持っている。アドリアンが奇矯でないのは、ドイツそのものが奇矯でないことを示している。でもアドリアンが社会や楽壇でなかなか受け入れられず、作品が成功を収めるのに時間がかかり、しかし秘教的聴衆が生まれたように、ドイツそのものドイツ精神も世界では受け入れられにくい。まじめで謙虚でありながら、パロディ好きで他人を嘲笑したがるという背反する行動を「理解」して交友するのは難しいのだ。その難しさや他人からの婉曲な拒否をアドリアンがわかっていたように、ドイツも交友の困難さを知ってはいるが、自己変化を促すことも難しい。
 そのようなドイツはWW1とWW2で破滅したのである。その理由をこの小説では、アドリアンの意識的な罹患に求める。悪魔のごときものと「天才化された時を24年間与えよう、その間、君には霊感と自己享楽、飛翔と照明がある。その代わり、君は愛を断念しなければならない」という取引をして、身体に病原菌を取り込んだ。病原菌はドイツに「霊感と自己享楽、飛翔と照明」を与えたが、取引の時間をへたのちに身体と精神を破滅させた。いったいトーマス・マンの小説では病気に罹患することは聖性を帯びることと破滅を迎えることの同義になる。「魔の山」の結核、「ヴェニスに死す」のペスト。これらに罹患すると日常の人間には経験できない崇高さと勤勉のときを経験できる。トーマス・マンの発明というより、19世紀の疾病観の反映だそう(スーザン・ソンタグ「エイズとその隠喩」(みすず書房))。アドリアンに罹患したのはナチズムであると、作者は見たのだろうか(実際、アドリアンやその取り巻きがWW1の敗戦後にファシズムを期待する会話をしている)。
 アドリアンの生涯は19世紀から1945年までのドイツの歴史の象徴・メタファーなのだ。彼の健康が病気によって破滅するのがドイツの運命に重なっているとみるのはとてもわかりやすい。しかし、一点だけと手も違和感。すなわちアドリアン=ドイツが罹患した病原菌は外部由来ではないということ。ナチズムは外から来たカルト思想ではないし、狂気のカリスマに熱狂した一時的な倒錯ではない。そうではなくて、資本主義との隆盛と格差拡大から生じるレイシズムはドイツそのものドイツ精神そのものの核心であったのだ。
2021/12/03 川崎修「ハンナ・アレント」(講談社学術文庫)-1 2014年
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2021/11/26 牧野雅彦「精読アレント「全体主義の起源」」(講談社選書メチエ)-1 2015年
2021/11/25 牧野雅彦「精読アレント「全体主義の起源」」(講談社選書メチエ)-2 2015年
2021/11/22 牧野雅彦「精読アレント「全体主義の起源」」(講談社選書メチエ)-3 2015年

 

 そういえばハイデガーアドルノも(本書のトーマス・マンも)ドイツを危機に陥らせ破滅させたのは、「啓蒙」の野蛮、アメリカの資本主義とソ連全体主義、技術であると、「精神」の外側にあるとしたのだった。外からの浸食が内を破壊し滅亡させる。陰謀論めいた考えだ。当っていないこともないが、外側の圧でおかしくなったと自己の責任を回避する見方は、物事やシステムを改善できない。

2017/06/23 マルティン・ハイデッガー「形而上学入門」(平凡社ライブラリ)-1 1935年
2017/06/22 マルティン・ハイデッガー「形而上学入門」(平凡社ライブラリ)-2「シュピーゲル対談」 1935年
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2021/12/07 テオドール・アドルノ/マックス・ホルクハイマー「啓蒙の弁証法」(岩波書店)-2 1947年


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2023/04/12 トーマス・マン「ファウスト博士 下」(岩波文庫)-2サマリー 1947年に続く