odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

谷崎潤一郎「犯罪小説集」(集英社文庫) 作者が誘惑する共犯関係にはいると、作者のマゾヒズムやピーピングはもう読者そのものの行為になってしまう

 谷崎潤一郎の初期短編のうち、犯罪に関係しているものを集めた。谷崎潤一郎はこれしか読んでいない、恥ずかしながら。「春琴抄」「鍵」など気になる小説はあるのだがねえ。もう読む時期を失してしまったのだろう。

柳湯の事件1917 ・・・ 弁護士事務所に駆け込んできた糖尿病の青年。自分は殺人を犯したのではないかと自白する。その話を聞くと、貧乏画家の青年はイライラすると同棲の女性に折檻する。ある夜、庭に投げ落とした女が動かなくなったのを見て、家を逃げ出した。途中の銭湯にはいると、湯気ばかりで何も見えない中、足の下に女の死体を感じる。それは自分の殺した瑠璃子であるに違いない。キーワードは「ぬらぬら(ひらがなのほうがよい)」。このぬめぬめとした皮膚感覚のおぞましさ、その一方のエロシズム。当時の銭湯は入り口こそ別だけど、湯船は混浴だったのだよ。しかもまともな照明がないので暗闇に近い。

途上1919 ・・・ 先妻をなくして次の結婚を予定している会社員・湯河。帰宅途中になれなれしい私立探偵につきまとわれる。そして先妻をなくしたときのことを話される。江戸川乱歩「探偵小説の謎」を読んで以来、読みたかった短編。もちろん乱歩の「赤い部屋」との類似を確認するためである。結論は、アイデアの豊富さでは乱歩であるが、小説の筋というかサスペンスの盛り上がりはこちら。でも困った、一番面白いのは乱歩のエッセー「プロバビリティの殺人」なのだ。

私1920 ・・・ 一高の寮で頻繁に窃盗事件が起きた。嫌疑は「私」にかかるのである。同室の樋口と中村は私をかばうのだが、平田だけは私への疑惑を解かない。私は平田に真実があることを説明し、かれへの友情があふれんばかりにあることを力説するのだが、平田は頑として私を受け入れない。一人称の犯罪小説。カーにもクリスティにも都筑道夫にもいろいろあるように一人称には気をつけろ。解説にあるように「語る私」と「語られる私」の分裂はここでは見破るのが困難なのだ。それと発表年代に注目しておこう。類例のいずれよりも早いということ。あと、この時代「私小説」の発展期であったわけだが、この趣向(私が私でないこと、真実をできるかぎり回りくどく語ること)はこの「私小説」に対する強烈な批判だったのではないかい。

白昼鬼語1917 ・・・ 神経症を病んでいる友人・園村が作家の「私」を訪れていうには、今晩殺人が行われる、ついてはいっしょに来てくれ。というのも、活動(もちろん弁士付の無声映画である)をみていると、まえの男二人と女二人連れが奇妙なそぶり。角刈りの男が捨てたメモをみると、ポオ「黄金虫」と同じ暗号が書いてある。それを解読して、今晩の事件を推理したのだ。そこで、徹夜で疲れた私も園村とでかけると、たしかに殺人の現場であった。園村は帰宅途中、事件の首魁と見える女に近づくと宣言する。しばらくして絶交した園村から、今晩今度は自分が殺されるから、見に来てくれと手紙が来た。紹介はここまで。驚天動地のフィナーレを期待してくれ。


 読んだ順番が逆さだから、感想は「なんて乱歩に似ているのだ」だけれども、実は谷崎が先になるのである。乱歩への影響を勘案しながら谷崎の特長を箇条書きに。
・主人公が新しい職業ないし高等遊民。なるほど弁護士にしろ会社員にしろ学生にしろ前からいたものとはいえ、彼らが主人公になるというのはまだまだ珍しい。第1次大戦の好況が背景にあるとはいえ、どこかの階級に属さない浮遊民がこのころにはいて、作家の関心を持つほどになっていたのだ。
・推理は、物証や証言など実証できるものを根拠におかない。ホームズもデュパンもそういう「もの」は軽蔑していた。優位に立つのは、心理的な根拠である。こういう人物はかのような精神の持ち主であるから、そのような行動もこういう性向からでたものである。捜査の対象になる人物の行動や会話から、心理的な痕跡を発見し、そこを推理の開始点とする。まあ、ある意味で精神分析と同じ手法であるのだろう。
・というわけで、変態性欲への関心が生まれる。ここではもっぱらマゾヒズム。殺人を犯したと妄想する男(「柳湯の事件」)にしろ、妻の死の理由とねちねちと尋ねられる男(「途上」)にしても、ぬすっとの嫌疑を掛けられながら否定しない学生(「私」)にしても、殺人現場を見ながら驚愕よりもエクスタシーを感じる私(「白昼鬼語」)にしろ、拒否ないし弁明できる機会を持ちながらもそれを行わず、自分が追い詰められていく(しかもそれに快感を感じる)連中。もちろん夫のいいなりに健康に悪いことを嬉々として行う「途上」の妻もそうだ。
・そのような快楽や快感の元になるのは皮膚感覚。薄暗い銭湯の湯船で足元に死体や髪を感じたり、なれなれしく近寄って耳元に探偵がささやいたり。面白いのは、それらの記述をするとき、「探偵小説」の要請する以上の熱情をこめて、ねっとりとなまなましくじっくり丹念に描写が行われること。それこそ文章による愛撫とでもいうような執拗さ。もしかしたら推理することないし謎が解けることよりも、この触れ合いの快楽を描くことが主題であるかもしれないと思わせるような。
・ただし、主人公たちは実際に死体に触れるわけではない。皮膚感覚が通常よりも細やかに過敏になるのは、覗き(作者は隙見とかいくつかの言葉を用意している)だ。覗きのポイントは2点。一方的な視線の志向性があるが、接触がないこと。そこで想像力とか妄想力が高められること。もうひとつは、見る-見られるの関係が演劇的になること。見る「私」がそのまま見られる「私」になるわけ。ここを複雑にすると一人称の文章における「語る私」と「語られる私」の分裂にまで行くのかもね。少なくともこの視線の関係と「私」の複雑さは自然主義とか「私小説」にはないもの。
・他者との距離のとり方が独特なのだ。「なれなれしく」「ぬめぬめ」というようにほとんど接触ないし触れ合った状態で(しかも初対面で)話をするか、覗き見・隙見のように接触が不可能なくらいに離れて会話を交わすか。いずれにしても通常の会話ができる距離にいることはほとんどない。
・さらにこういう奇妙な対人の距離感覚は、作者と読者の間にもある。作者のねちねちしてじっとりと汗ばんだ文章や、耳元に息がかかるくらいのところでささやいている会話や、ときおり作者が登場して読者に「ねえあなたもそうでしょう」と念をおしてくるなれなれしさなどは、作者が読者を誘惑している、というより共犯関係を無理やりつくり、その犯罪から逃げ出すことができない(官憲が後から追ってくる)ような感じ(重要!)をもたらす。その共犯関係にはいると、作者のマゾヒズムやピーピングはもう読者そのものの行為になってしまう。
・だから作者の変態(「白昼鬼語」の女の和服や髪の結い方の執拗な描写をするフェティシズム、夫や愛人に殺されるかもしれないという不安と快楽、「私」の正体がばれるかもしれないという不安と自分を理解しているはずだという奇妙な期待、「パノラマ島」の性のユートピアなど)は、読者の嗜好そのものになるのである。ああ、なんて気色悪く、エロティックなのだろう。