odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

サイモン・シン「フェルマーの最終定理」(新潮文庫) 現代数学は理解もイメージすることも難しいものになったが、孤独なワイルズに訪れたひらめきには心躍らされる。

 フェルマーが当時の数学の教科書の余白に書いたメモ(それが知られるようになったのは、息子が書き込み付の本を出版したこと、および1908年にとある財団が証明に懸賞をだしたこと)で、350年間数学者が頭を悩ました問題の最終解決を独力で行った物語。証明の前提となる予想をした人(なんと日本の数学者)、証明の道筋を作った人など、関係者が多々いて、オイラーガウスガロアなどの前世紀の偉大な数学者の実績を参照し、論理哲学者の証明不可能とのものいい(ゲーデル不完全性定理の実例と思われた時期がある)に対抗したり、とちょっとした数学史の勉強にもなる。

17世紀、ひとりの数学者が謎に満ちた言葉を残した。「私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない」以後、あまりにも有名になったこの数学界最大の超難問「フェルマーの最終定理」への挑戦が始まったが――。天才数学者ワイルズの完全証明に至る波乱のドラマを軸に、3世紀に及ぶ数学者たちの苦闘を描く、感動の数学ノンフィクション!
サイモン・シン、青木薫/訳 『フェルマーの最終定理』 | 新潮社

 オイラーくらいまでは、さほど難しい議論ではなかったのだが、ヒルベルトの登場あたりからとたんに理解が困難になる。義務教育と次の高等教育では18世紀の数学までしかカバーしていないし、「数学の完全性」の挫折から現代数学が始まった、それは専門訓練を受けないとなかなか理解も(それどころかイメージすることも)難しいものになったのだなあ、とため息をつく。でも、ページを繰る手が止まらないし、次のページを早く開きたいと思うのは、著者の技術が素晴らしいから。
 素晴らしいと思うのは、最後の解決を「発見」するところ。最初の論文を発表したあとの査読で小さなミスを指摘される。それは簡単に答えられると思ったのに、巨大な壁になってしまった。そこが解決できないということは、150ページの論文が瓦解することになる(とはいえ、他の論証は高く評価されていた)。14か月の孤独な戦い。もう一月考えて答えが見つからなかったら、諦めようとワイルズは考える(共同研究者の励ましがなかったら、もっと早くあきらめていた可能性もあった)。そしてあるとき、ひらめきが訪れる。
 この瞬間は個人的な経験でわかるなあ。自分の問題はもっとずっとやさしいもので、いばることでもないのだけれど。誰かがaha体験といっていた。そうか、それでよいのだ!という高揚と、なんだ、こんなに簡単なことか!というあきれというかおどろきというか拍子ぬけというか、いくつもの感情が同時に起きて、やるぞ!という意欲になる、その瞬間(そのあとの作業は退屈なんだけれど)。この瞬間の体験は功利でも合理的なのものでもない価値があるのだよな。
 数には興味をあまり持てなかったし、数論は難しすぎるしで、数学の勉強はできなかったけれど、数学の本を読む面白さは、上のようなaha体験の純粋版を追体験できるからではないかと考えた。あまりに面白くて2日で読んでしまった。たぶん、また読む機会があるだろう。