odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

ポール・ホフマン「放浪の天才数学者エルデシュ」(草思社文庫)-1 読者の理解を越えた奇人の天才数学者の一代記。天使ははた目にはほほえましいが、付き合うにはうっとうしい。

 数論のおもしろさは、数(かず)という日常で使い慣れた(と思い込んでいる)ツールから、思いがけずに深淵な世界をかいまみさせること。でも、その世界の奥深さと幽玄さは自分のような凡庸な頭には全く理解ができない。いまよりももっと計算になれていて、しかも集中することのできた中学高校時代においてすら、コーネリウス・ランツォス「数とはなにか」(講談社ブルーバックス)やG.L.シャックル「楽しい数学」(現代教養文庫)についていけなくなった。向いていないのがわかったので、即座に進路をそちらにむけないことを決めた。
 なにしろ自分が使う数字は億まで(しかも千円や百万円以下は四捨五入している)、多少遊べる数字は3ケタの少々まで、となると、数の関連や頻出頻度などさっぱり見えてこない。小川洋子「博士の愛した数式」に目を見張ったのは、210と284の友愛関係だし、この本で記憶に残るのは、その種のいくつかのエピソード(4けたの数字をみて/言わせて、その面白さを言い当てる。ラマルジャンやエルデシュら)にあった。そこまではいい。そのさきの素数分布やゲーデル不完全性定理フェルマーの最終定理やラムゼー定理などになると、どうにもならない。問題と解決を素人向けに簡単に説明したものですら、理解は容易ではなく、途中の説明もさっぱり。高校までの教科書でならう数学はせいぜい17世紀までであって(ほかの科学の分野では20世紀後半の知見を教わる)、18世紀の数学者のいうことですらときに理解はむずかしい(しかし、ときに哲学や心理学その他の別の学問の人たちが数学を自説の説明に使うことがある。自分は眉唾で読むか、スルーするか。多少専門がわかる生物学が別の学問分野で使われるとき、誤用の例をみているから。といって具体を上げるというな、忘れた)。


 それでも数論には魅せられるところがあって、いくつか読んでいる。これもそのひとつであるが、数論に魅せられる理由のひとつは、その理論の非人間性(というか抽象性、論理性)にたいして研究する人間がひどくおもしろいということにあるらしい。ピタゴラスフェルマーガウスラマルジャンたち。フェルマーの最終定理をほぼ独力で解決したワイルズにしても、7年間屋根裏部屋で一人で研究していたとなると、およそ読者の生活とはかけ離れている。この本の主人公ポール・エルデシュとなると、ほぼ理解不能。20世紀前半から政治に翻弄されて、国家と自分の縁が切れていたが、あるとしても意に介さない。生活用具はスーツケース二個におさまり、数学者の家を泊まり歩き、誰かに面倒をみてもらえなければなにひとつできないうえ、ハンガリー訛りの英語は聞き取りにくく、そのうえ自分の造語を勝手につかい、一日数時間の睡眠で不足分を薬物で代用し、起きている間は数学のことしか考えず、相手の都合を忖度することなく世界中の数学者に電話をかけ、出会う人に数学の話をし、早朝から深夜まで数学のことだけしゃべり続け、宿泊している家族がうんざりしたころに別の数学者のところへ移動する。そういう生活を4-50年も続けた。およそ読者の理解を越えた人であり、迷惑この上ないとおもいながら、なぜか数学者グループは彼の面倒を見た。エルデシュの数学の頭脳はとびぬけて優秀で、短時間でエレガントな解決をみつけ、しかもその能力は高齢になっても衰えず、絶えず問題を見つけ解決し、他人の問題解決に援助し続けたからだ。その結果、大半が共著の論文を1500も発表し(匹敵するのはガウスのみ。通常は生涯で数十本)、きわめて広範囲の数学分野で発見や証明を行ってきた。この人が数学界だけで知られているのは、発見や証明が数学の分野に限定されていて、大衆の耳目を集める問題には関わりがなくメディアにでてくることが極めて少なかったからにほかならない。
 たとえば、自分などはロフティングのドリトル先生武者小路実篤「真理先生」ですら、社会や世界に背を向けた隠遁者としてはファンタジックに過ぎると思うのだが、それをはるかにこえるようなファンタジック(ただし隠遁者ではない)な生き方をしたということに魅かれる。ひとえに数学的頭脳の優秀さによるとなると、天才(という範疇にはおさまらないなあ)がこの世界に存在した/できることに驚きをもつのだ。ただし、エルデシュ自身の内面と心理や感情になるとまったくわからない。そのようなもの・ことを持ってないのではないかとさえ思わせる。およそ近代とはかけはなれたこのような人は「天使」と呼ぶしかないのかなあ。この天使がちかくにいるのはうっとうしいけど。
エルデシュの母は聡明な人であったようだが、息子に対しては厳格で、女性との交際を厳しく戒めた。その生活はエド・ゲインに似ている。エルデシュは数学という熱中するものを持っていたので、性犯罪を犯すことはなかったが、恋愛をしたことがなく、結婚もしなかった。)

  

2018/06/07 ポール・ホフマン「放浪の天才数学者エルデシュ」(草思社文庫)-2 1998年