odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

フーゴ・フォン・ホーフマンスタール「選集3 論文・エッセイ」(河出書房新社)-1

 ホーフマンスタールはリヒャルト・シュトラウスの歌劇の台本を書いたことくらいでしか知らない。ドイツ-オーストリアの19世紀末には興味はあるが、おもに音楽に対してであって、文学評論にはむかっていない。そのうえ、最近、詩が読めなくなった。「理系」の専門教育を受けたり、そのあとのさまざまな仕事で、言葉の意味は限定的であり、指し示すことは明確でなければならないようにしてきたので、詩歌のような多義的・象徴的・連想的な言葉は使い勝手が悪く、読み書きが困難になったのだ。なので、ホーフマンスタールの主張はよくわからないだろう。そのようなバイアスを持っているものが読んでみる(読書前の書付)。
 なお、この選集には70編くらいの文章が納められているが、気になったものだけレビューすることにする。


チャンドス卿の手紙 ・・・ 17世紀初頭。詩歌の才能を持っていると思われた青年がいつまでも書物を書かない。催促したら、弁明の手紙が帰ってきた。という設定の文書。書き手のチャンドス卿のいうことには、書けない理由は、言葉と意味されることの間のつながりを失ったこと、事物を描写するには言葉が貧しいこと、生活に無関心になって感興がわかないことにあるらしい。でもって、現実の言葉ではない別の言語でなければならないという。ああ、こういう記号と意味されるものの結びつきが崩壊するような感覚はときにあったな。自分は一時的だったが、彼には継続したのだろう。詩歌ではなく、数学やコンピューター言語をやれば、この崩壊感覚は克服できたかも。17世紀にはたしかになかった。

詩についての対話 ・・・ クレメンスとガブリエルの対話。自分には二人の区別がつかない。詩には形象と象徴があるとか、日常語とは全く違った言葉であるとか、世界や夢から本質的なことを吸い取るとか。どうやら詩はそれを通じて自然とか永遠とかことばになりえない不変なものと合一、合体する方法であるらしく、その経験を身体化するための手段でもあるらしい。

詩人と現代 ・・・ 以下はサマリーではなく、自分の連想飛躍。上のような詩的体験は世界とか歴史などを個人を一気に結び付ける体験(形式フォルムの読み取りを通じて精神性を獲得できるから)である。しかるに、19世紀末の文化は通俗化大衆化していき、詩的体験に無縁な大衆がさんざめいている。このような堕落から詩的体験を保護するのが教養と詩であって、それらを実体験する詩人は重要。(このように詩人を特権化する理由がわからない)。

ドイツ読本 ・・・ ドイツは統合した歴史(政治史、国家史)をもたない。そのうえフランスのような基準(民主主義と自由)をもたない。誇れるのは文芸と哲学であり、その代表作を集めました、というアンソロジーの序文。他の文章でもドイツのナショナリズムは歴史や国家を誇れず、言語や(ドイツ)精神を持ち出すしかない歯噛みが聞こえる。神話時代をのぞくと、ドイツの最盛期はゲーテベートーヴェンからノヴァーリスまで(18世紀半ばから19世紀前半)。以降は卑小化、通俗化の歴史。なので、現在(1900年前後)は最悪。民族と国家が統合された過去を取り戻すことが目的(それが保守的革命の意味)、だそうです。
 このあたりの議論は、ヘルムート・プレスナー「ドイツロマン主義とナチズム」(講談社学術文庫)を参考に。
ヘルムート・プレスナー「ドイツロマン主義とナチズム」(講談社学術文庫)-1
ヘルムート・プレスナー「ドイツロマン主義とナチズム」(講談社学術文庫)-2
(ランケがなんども登場するが、上の主張と重ねると、ランケに人気のあった理由がわかる。「世界史概観」でローマ帝国のあとをフランク王国神聖ローマ帝国がつなぎ、現在(ランケにとっての)のプロシャ帝国になるという系譜を仮構することで、ドイツの歴史の正統性をつくったのだ。)
レオポルド・ランケ「世界史概観」(岩波文庫)


 以上がIとIIのドイツの詩や小説に関する議論。ドイツの「遅れてきた」という意識が当時のインテリを呪縛し、先進国であるイギリスやフランスとの違いや優位性を確認せずにはいられない精神の運動があったのだろう。ワーグナーフルトヴェングラーらはドイツ精神の発露を「音楽」に見出したが、ホーフマンスタールは「詩」に見出そうとしたのが異なる。ドイツ文学史に詳しくないので、このような運動はどこから始まったのかしら。グリム兄弟のフォークロア研究やノヴァーリスヘルダーリンあたりのドイツ・ロマン主義の系譜にあるのかしら。
参考エントリー:
リヒャルト・ワーグナー「芸術と革命」(岩波文庫)
 あと、現在よりも過去の方が優れていたというのもこの人の考え。なにしろ歴史の正統性があいまいなとき、個人の天才や偉人の存在が重要になっていて、彼らの場合およそ100年前の芸術家を祭り上げることになる。ゲーテベートーヴェンが最高峰で、モーツァルトJ.S.バッハの存在が次いで重要。これも19世紀初頭の音楽や文学研究の流れにあるものだろう。
参考エントリー:
フォルケル「バッハの生涯と芸術」(岩波文庫)
カルラ・ヘッカー「フルトヴェングラーとの対話」(音楽之友社)
クルト・リース「フルトヴェングラー」(みすず書房)
エドウィン・フィッシャー「音楽を愛する友へ」(新潮文庫)
 ビジネスや勉強の現場では、言葉に多義性をもたせず、意味を明確にすることをめざしてきた。そうしないと受け手が意図を離れて読み取り混乱が生じるから。さらに事実と意見を明確に分け、できるだけ偏見や思い込みを排除する文章を書こうと心掛けてきた。自分のやり方は、著者の言葉や文章の目指すところと異なる。なので、曖昧さや偏狭さが目について、読むほどに白けていった。自分の勉強や参考にはならなかった。まあ仕方がない。
 河出書房の選集には、「1.詩・韻文劇」「2.小説・散文」「4.戯曲」があるが、読まない。

  

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