odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

マルグリッド・デュラス「愛人」(河出書房新社) 家族を憎んだ娘は他人の愛人になって感情を殺し肉体を嫌悪する。

 70歳を過ぎた作家が自分の少女時代を回想する。最初は、自分の手元に残されている写真をみながら、家族のこと、生まれ故郷のことを思い出す。もともとは生誕70歳を記念する写真集をだすとかで、キャンプションを付けているうちに、エクリチュールが拡大していったのだった(「エクリチュール」の使い方はこれでいいのかな)。ベトナム(少女時代)とフランス(現在)というほぼ対蹠点同士の途方もない距離とか、50年以上を隔てた時間などがあって、ことは「自分」にかかわる記憶を紡いでいるとはいいながら、時間と場所の記憶はあいまいになり、同じ「小説」のなかでつじつまのあわないできごとが記載されている。それにこれだけの距離と時間を隔てているとなると、ことは「自分」に起きたこととはいえ、まるで別人の記憶と感情を記述しているかのようであり、なんにしろ「自分」という存在の継続性すら疑われるような心持になってしまうらしい。
 とりあえず、歴史的な事実をここから読み取ろうとすると、フランスの植民地統治の官吏として戦前のベトナムに派遣された一家がいた。3人の子供をもってはためには幸福そうに見えたが、父が異国の地で急死。母は小学校の教師を務めながらいろいろ手を打ったのだが、世間知らずの奥様に世は冷たく、農場として購入した土地は毎年一回は海水に水没するという詐欺にあう。堤防を作って水害を抑えようとしたものの、堤防に巣食うカニによって(おそらく開けた穴のせい)決壊してしまう。一家はひどい困窮にうめく。しかも残念ながら一家の紐帯は細くか弱いものであって、長兄は母の愛を一身に受けたもののどうしようもないならず者であり、次兄は長兄の憎悪を一身に受ける弱いもの、母はこのような状況においても気まぐれで愚痴をこぼし、自分を誰も愛さないと憂鬱にありながら、社交をやめない。作者は母を狂気にとらわれたのだと評する。末子の娘はフランス語がよくできるので、フランスの大学進学を勧めらている。彼女は母と長兄とはうまくいかず、次兄には憐憫を覚えている。なんというか、寒々しい光景(ベトナムの熱帯気候にいるのに)。
 主題はこういう家族の関係とか、母と娘の確執とか、ついに社会に適応できずに落ちていく兄への奇妙な観察癖(憐憫すらない冷たい感情)など。しかし、この問題が後景に退いてしまうのは、15歳半の娘が中年の中国人実業家の愛人になるという衝撃的なできごとのせいかしら。はしけの上でナンパされた娘は男の愛人であるという事実をうけいれたとたんに、自分の感情を殺すロボットに変身してしまったかのよう。そのまま処女を失ったのであっても、感情は一切かかれず、わずかな出血に気遣う男のほうが記述されるだけ。二人は何を会話したかも書かれず(たしか文中では、自分のいいたいことを口にするだけだったみたいな記載があった)、では男の容姿がどうであったかも判然とはしない。なんとも作者の肉体嫌悪というのはすさまじいなあ。書くという場に身を置くと、快楽も苦痛もなにかを引き起こすことはないというのかしら。それとも作者にとって、肉体というのは精神から切り離された客体でしかない、精神も支配できないなにか別のものであるというのかしら(作者は中年時代にアルコール中毒になって治療を必要としたのだ)。 
 にもかかわらずページを繰る手を止められず、次のページの文字を読みたいと熱中してしまうのは、作者の文体にあるのだろう。清水徹の翻訳を経ているので、どこまでデュラスであるのかわからないにしても。あいまいであって明晰であり、各所で分断されているけどよどみなく流れ、いくつもの時間がありながら(幼年時代、10代、フランスに出たあとの1940年代、記述している1980年代という4つの時間がある)ひとつの巨大な時間=作者自身が支配しているような。
 最初に読んだ時(1992年)の直後にジャン=ジャック・アノー監督の映画をみて失望したのは、この複数の時間を映画に持たせられなかったことと、母娘の関係が描かれなかったからだろうなあ。