odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

開高健「渚から来るもの」(角川文庫)

 もとは1966年1月から10か月間朝日ジャーナルに連載された小説。ずっと単行本化されなかったので、1970年代に新潮社が出した「全仕事」には収録されていない。単行本になったのは1980年で、1983年に文庫化。

 東南アジアの架空の国アゴネシア。1940年までフランス領。日本軍が占領し、敗戦で解体した後、再びフランスが戻ってきたので祖国解放戦争が開始。10年ほどの戦争でフランスが撤退したあと、労農党の統治する東アゴネシアと国民党が統治する西アゴネシアに分割される。フランスを引き継いでアメリカが西アゴネシアに経済と軍事の援助を行い、東西アゴネシアの戦争が開始された。東西の国境は軍事境界があって、なかなかその向こうにいくことはできない。東アゴネシアには中国、ソ連など東側諸国からの援助は行われているらしい。指導者は「村長」と呼ばれる。西アゴネシアは「強い人」という質実剛健の孤独な独裁者が農地解放などの経済拡大政策をとる一方、民主主義・自由主義社会主義などを弾圧し、強制収容所に投獄している。官僚はいかに不正・収賄するかにいそしみ、アメリカの膨大な援助物資は村に届く間に、溶けて蒸発してしまう。そしてときに、強い人に反抗するクーデターが起こり、ときに学生・知識人の抗議もある。それは一瞬で弾圧される。アメリカは軍事顧問として参戦しているので、積極的な作戦をとることができず、腐敗した国民党軍に翻弄され、西アゴネシアに侮蔑と憎悪を感じ、「自由と平和」の確立のために毎日戦死者を出している。

魔法の魚の水 ・・・ 万病を治す奇跡の魚のうわさを打ち消すためにアメリカ軍と国民党軍が派遣される。アゴネシア民衆の穏やかな拒絶。

チェン ・・・ 雇用した現地の通訳兼情報屋。徴兵逃れのために指を切断するなど。

蝶と宮殿と娘 ・・・ 上記にまとめた東西アゴネシア国の20世紀の歴史。指導者の素描、政治と経済体制の違いなど。「1984年」「動物農場」にいずれの国もよく似ていて、それこそどちらがどちらかわからない。

輝ける闇 ・・・ 西アゴネシア知識人との会話。インド人ダンサーのストリップ。チャンの妹トーガ(素蛾)との情交。陽光の溢れる中での孤独とか、未来のなさとか、希望の喪失とか、アイデンティティの喪失とか、そこを「輝ける闇」と呼ぶ。

アーサー宮廷のコネチカット・ヤンキー ・・・ 最初の前線基地訪問。銃撃もない単調で退屈、しかしコーラとステーキが途切れない奇妙な前線。それに対する現地人軍の装備・施設のおそまつさ。表題の小説(1877年だったかな)が現在を描写しているとおもわせる奇妙さ。

死産の革命 ・・・ 首都メイトーで起きた暴動とクーデター。4日間の高揚のあとの戒厳令。人々は4日間しゃべり続け、翌日から押し黙る。

輪舞 ・・・ 2回目の前線基地訪問。軍事境界を超える作戦に参加。ジャングルで労農党軍に包囲され200人中17名のみ生還。

終章 ・・・ 首都メイトーに現れるナイトメア。死んだ将兵たちが腸を引きずり、銃弾のあとをそのままにして、歩き回っている。

 「歩く影たち」(ああ、このタイトルは「渚からくるもの」の終章のイメージと同じだ)と同じ感想。書かれていることは圧倒的。戦争、政治体制、国際政治あたりの大状況から、首都の生活、スラムや農民の生活、知識人の苦悩などの中状況までは、現在(2012年)の読者からは予測や想像もつかないことが書かれている。それはあの時代にあの場所(ベトナム戦争時のベトナム)にいたことが大きく反映している。ただ、その圧倒的な現実がこのような小説になったとき、どこまで掬えているのかわからない。「ベトナム戦記」「過去と未来の国々」「紙の中の戦争」「白いページ」「フィッシュ・オン」などのほうが読み出があると思う、という感想をもう一度繰り返すしかない。
 この作品を封印し、「輝ける闇」「夜の闇」に書き直すことをしたのも、彼の体験の核のようなことを掬い取ることであるのだろうが、なかなか苦しい仕事であったようだ。作中でマルロー「人間の条件」(こちらは1927年代の南京)をある僧の発言で批判している。作者のものであるのか、別の人の意見の引用なのかわからない。そこでは、1)「人間の条件」の登場人物が作者の内面のナルシズムの反映で現実を描写していないのではないか、2)人間の敗北を謳うのはかまわないが、現在(1966年当時)にベトナム戦争に発言しないのはなぜか、という問いがあった。あいにく、これは1980-90年代の作者にブーメランのように帰ってきたのかもしれない。自分は、作者の沈黙には何の意見もないけど。
 ただ、個人的にいえば、いくつかの小説を読みなおしたとき、どうも彼の小説は成功していないように思える。「事実」「見ることに」押しつぶされて、小説になる手前で孵化しそこなった卵のように見える。ま、似たような指摘はサルトルの小説にもあるのだけどね。