odd_hatchの読書ノート

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奥泉光「グランド・ミステリー」(角川文庫)

 物語は真珠湾攻撃準備で太平洋を渡航中の空母から始まる。第1次攻撃に向かった艦爆機が帰還すると操縦手が服毒死している。その直前には機体整備の兵士が理由なく失踪している。また潜水艦では決死の小型潜水艦による真珠湾攻撃準備中、潜水中の艦内で重要書類盗難事件が発生する。小型潜水艦は帰還できない前提での特攻であったが、それに乗り込んだ兵士はなにかの秘密を抱えていたらしい。二つの物語の主要人物は、艦隊勤務の傍らこの事件の謎を解くべく行動していくうちに、国内で暗躍する秘密団体の存在を知るにいたる。それは「太平洋戦争」の推移をすでに10年前から幻視しているものらしい。
 一方、主要人物たちの係累たちは戦争下の国内において、華族貴族ブルジョワ大学教授などと交友し、さまざまな意見を取り交わしては自己の弁明と他人の非難、これからの日本、世界のあり方をこれ見よとばかりに力説する。そのような者たちにも徐々に秘密団体が影を落とすようになり、あるものはそれを利用し策略・計略を図るのであるし、あるものはいやおうなしにそれにかかわり自己の内面・精神を変革せざるをえない経験を直面する。
 錯綜した物語は、登場する人物にはまったく全体像を把握することが不可能であり、それを文章から類推する読者は登場人物たちの認識の一歩先を歩いていることにはなるのだが、その先では読者の認識も誤認であることを思い知らされることになり、作者は作中一度も姿を現すこともなく、作者を代弁する人物もいないために誰の認識がもっとも正しいのかは決して明かされることはない。ここでは「第1の書物」「第2の書物」というアカシック・レコードをモチーフにした平行世界論が繰り広げられているようではあっても、どの場面がどちらの書物に対応するかはさだかでなく、しかも書物の数がたかだか2冊とはとても思えないのであって、さらに読者の認識は錯綜していき、それでいて事件は「太平洋戦争」の史実に忠実に進んでいき、その時間の流れに間違いがないことが唯一の正確な認識になっている。
 いったいこのような錯綜した物語は、モダン・ホラーに多く使われるパッチ・ワーク式(@大瀧啓裕)によるものにほかならないとしても、ここまでの使い手はなかなかいないはずであり、とりわけ国内の諸氏の作にはなかったものであるから、この物語が誕生したことは慶賀とするに値する。ここでは、「太平洋戦争」時の軍事情報を細かく描写するのみならず、当時の文壇・論壇で行われた議論をほとんど網羅しそれをいかにもふさわしい人物に語らせ、さらには風俗までも闊達に描いているのであって、それらのための知的作業はさぞかしのものと思わざるを得ない。多くの小説読みにとっては、胡散臭い国粋主義団体首謀者の割腹シーンに三島由紀夫のそれを重ね合わせ、うかうかと紛れ込んだ男に穴を掘らせその前で思想をよどみなく披露したのち突然自殺する奇怪な男に「罪と罰」のスヴァドリガイロフを重ね合わせ、弁護士、大学教授にモダンガールや学生が集うギリシャ文学の講読会に「猫」のクシャミ先生とその取り巻きを重ね合わせるなど、先行する諸作品のパスティーシュを楽しむことができるだろう。
 この小説は、とりあえず「ミステリー」の範疇にはいるのであるかもしれないが、根幹のアイデアはSFであるかも知れず、しかし「斜陽」「貴族の階段」のごとき戦前ブルジョワの風俗小説でありえ、純な女と怜悧な男の恋愛駆け引き小説でもあり、リアルで恐ろしい戦争小説でもあり、小説半ばで牢獄のごとく閉ざされた暗い部屋で語られるとりあえずの「真実」はホラーの範疇に収まるのであって、結局この小説は「グランド・ミステリー」としかいいようのないジャンルをつくっているのであった。