odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

広瀬正「エロス」(集英社文庫) 老年を迎えた歌手に現れる「もうひとつの過去」。個人は変わらないのに状況がどんどん変わるというのは日本の庶民の現実認識パターン。

 昭和46年(1971年)、歌手生活37周年を記念して橘百合子がリサイタルを開くことになった。夕食を終えて自宅に帰る途中、盲目の高齢者と接触事故を起こしてしまう。片桐となのる老人は、橘百合子を名乗る前の赤井ゆり子のころからファンだった、盲目になる前に作った歌「エロス」があるといい、酒焼けした声にしては伸びのある声で歌う。そういえば、と百合子(ゆり子)は、もしミドルティーンの私がヌードモデルに合格していたら、引き立ててくれた歌謡界の大物と会うこともなく、もっと平凡な人生を送っていたのかもしれない、とノスタルジーにふける。

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 すると、「もうひとつの過去」がありえたかもしれない姿として現れる。そこでは、帝大工学部の学生・片桐慎一は、ラジオの修理をアルバイトでやっているうちに、ヌードモデルの赤井ゆり子とであい、紆余曲折の末に結婚した。片桐はNHKのテレビ開発技術者になり、ゆり子は近所の人たちの手伝いなど。休みの日には、銀座にでかけたり。彼らの半径50mは平穏であるが、その外では226事件ベルリンオリンピック、ガソリン輸入規制などがあり、不安定。中国の戦争はおさまらず、調整審査は緩くなって、これまで兵役にとられないような体格のものであっても、赤紙は届く。
 主人公の慎一とゆり子には何も起こらない。かわりに大状況がどんどん変わる。ここには書かれていない満州事変から中国との戦争がはじまり、わずか10年後には世界戦争にまで広がる。その気配は庶民にも人ひたと押し寄せているんだが、片桐もゆり子も議論するわけでもなく抵抗するわけでもなく見過ごしてしまう。政治より生活が大事という功利主義というかことなかれが日本人に蔓延していたのだねえ(それができないような体制を数十年かけて作ってきたわけだが)。
 作家が熱中したのは1930年代の記録を残すこと。とても古いことを調べるものだと思ったが、初出1971年から振り返ると30-40年前のこと。成人以上にはなんらかの記憶が残っているのであり、ここでも町の気分や雰囲気などに作家の体験したことが反映しているだろう。筋に関係ないのに「広瀬正」という少年を登場させるくらいに。あいにく、作家の技量では資料を並べるだけになってしまって、そこに生きている人のリアルなできごとには思えない。そこは
ウィリアム・ヒョーツバーグ「ポーをめぐる殺人」(扶桑社文庫)
奥泉光「『吾輩は猫である』殺人事件」(新潮文庫) 
などには遠く及ばない。