「第一次世界大戦に席捲され、暴力と死の翳におおわれた「われらの時代」の行き場のない不安と焦躁、そこからの脱出の苦闘を、日常生活の断片のスケッチによって描き上げた初期傑作短篇集。ドス・パソス、F.S.フィッツジェラルド、フォークナーら「失われた世代」の聖書として、当時の若い読者の圧倒的な共感を呼んだ。」
高校生のときに読んだ新潮文庫の「ヘミングウェイ短編集」(現在のものではない。2巻に収録された短編ははるかに少ない)には抜粋が収録されていた。章の間にあるエピグラフごとまとめて読めるようになったのは、今は無き福武文庫のおかげ。
さて、ヘミングウェイと同世代であると思われるニック・アダムスの成長譚。彼はたぶんアメリカ東部か南部あたりの古い道徳のある場所で育った。好きかどうかわからない女性と婚約する。第1次大戦に徴兵したのが大きな転換点。暴力と死が日常になった世界を経験することによって、アイデンティティを喪失する。婚約を解消し、勤めをやめ、放浪生活に入っているところまでが描かれる。なんとなく、彼のその後を想像すると、「日はまた昇る」のパリの放縦生活になるのだろう。
このような戦争のショック、アイデンティティの喪失、そこからの脱出の道の模索というのは、この人に限るわけではなく、アメリカでも西洋でもあった。木田元「ハイデガーの思想」によると(元はジョージ・スタイナー「ハイデガー」だったと思う)、同じ時代に似たような大きな著作が現れ、それらは時代の不安と超克を表しているという。ハイデガー「存在と時間」、シュペングラー「西洋の没落」、カール・バルトは「ローマ書講解」、あとヒトラー「我が闘争」。この1920年代の不安と「失われた世代」とバブルのあとの世界的不景気のときに、資本主義の危機を克服するにはファシズムかボルシェビズムかの全体主義体制しかないと思われたということまで一応抑えておくことにする。たとえば、ワンダーフォーゲルや民謡運動などの青年運動は前者に、シュールリアリズムは後者に取り込まれていった。
ヘミングウェイから離れた。この構成の緩い連作短編集を読むと、だいたい上記のような主人公の孤独がいや増していくように進んでいく。2編めの「医者とその妻」でニックは婚約を解消。その理由は本人にもわからない。その後は、行きづりで出会った男たちとの無愛想な会話だけ。次第にニックは都会からはなれ、田舎に向かう。田舎の自然で、自然との対話による一体感の復活などというテーマは描かれない。自然も田舎も無愛想で、ニックには厳しい姿を見せる。最後の「大きな二つの心臓の川」に至るともはや他人は現れない。独白もなくなる。起きて飯を食い、釣りをする、これだけ。世界は広いのに、ニック自身はより閉塞されている。こういうむなしさ、やけっぱち、ふてくされなどが描かれたのが新しいのだった。
とはいうものの、形容詞も副詞もない単純な、しかしまねしようとすると無惨な結果になるヘミングウェイの文体で描かれた食事はなんとうまそうなことか。川の水でコーヒーを沸かし、焚き火でベーコンとほうれん草と玉子をいため、サンドイッチにしただけという凡庸な朝食なのに、文章から匂いと味が漂ってくるようだ。彼の作る野外の朝食には付き合いたい。