odd_hatchの読書ノート

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ジュール・ルナール「博物誌」(旺文社文庫) 田舎に住んで野生の動植物と一緒に暮らした詩人が、彼らの「ありのまま」を描く。

 解説を読んでなるほどと思ったのは、ルナールはビュフォンの「博物誌」を読んでいたのだったってこと。ビュフォンの博物誌L'Histoire Naturelleは当時の博物学研究の総覧(1749-1788ころまで)。数十巻に及ぶ大著で、世界の動物を枚挙しようとする大著。厳密な観察で描写していると思うが、科学と哲学と文学が未分離の時代には文学的な修辞が入っていることだろう。それから100年後のルナールの博物誌L'Histoire Naturelles(複数形)の時代には、ビュフォンの博物学は生物学研究においては古いもの、顧みる必要のないもの。パスツールダーウィンのあとに、博物学をするのは時代遅れ。でも科学のすてた修辞を文学的スケッチにした、というのがルナールの立ち位置。プチブルのルナールには流行り廃りを気にしないで済んだ。
 というのは、ルナールのこの時代、ヴェルレーヌランボーマラルメなどの象徴詩の一派ができていて、文学としてはそちらのほうが高尚とされる。ルナールはそういうグループに所属していたこともあるらしいが、次第に離れていき、象徴とか小説の筋とかに興味を持たなくなる。代わりに現れるのが観察。象徴派が都市に住んで人工世界で人工的な言語の世界を構築しようとしていたとすると、ルナールは田舎に住んで野生の動植物と一緒に暮らし、彼らの「ありのまま」を描く。そういう目論見でかかれたルナールの博物誌は就寝前の読書には最適。

 当然のことながらルナールの見聞を言語化しようとしても「ありのまま」はあり得ないのだが、できるだけそれを貫こうとする。その表れが、「私」はほとんど登場しないし、ときおり使われる「私」の内面は描かれないこと。見聞きする主体はできるだけ背景に隠す。それで書かれたもの・ことが象徴や筋のない「自然」ということになるのだろう。
 この「博物誌」では比喩を楽しむ。有名なのは、

蛇「長すぎる」
蝶「このふたつ折りのラブレターは、花の所番地をさがしている。」
蟻「どれもこれも、3という数字に似ている。
  そして、いること!
  いること!
  無限な数まで。333333333333……匹、無限な数まで。」

あたり。ここらへんはフランスの「エスプリ」なのだろう。
 でも中坊のころの自分が好きだったのはこういうコント。

蜥 蜴「壁――なんだか背筋がぞくぞくするぞ。
    とかげ――ぼくだよ。」
庭の中「花――きょうはお日さまが照るかしら?
    ひまわり――だいじょうぶさ、ぼくがその気になりさえすりやあね。
    如雨露――おつと待った!ぼくがその気になればね、雨降りになる
    よ。おまけにきりふきを取りでもしたら、どしや降りってとこだよ。」
   「ばらの花――あたしのこときれいだと思って?
    すずめばち――下着のほうを見なくちゃ。
    ばらの花――じゃあ、おはいんなさい。」

あたり。振り替えると、センスが古すぎて笑えないのだが、こういう気取った高雅なコントが面白くて、中坊の自分はいくつかまねしたものだったなあ。
 あとは、2-3ページかけた動物や庭のスケッチ。上記のように筋には興味はなく、教訓もないので、博物学趣味をもっていないとあんまり楽しめない。この国では、俳句とか和歌で自然を詠む人がたくさんいて、そういう人たちに好まれたのだろう。解説が串田孫一というのもそのあたりの事情だろう。

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ジュール・ルナール「博物誌」(旺文社文庫)→ https://amzn.to/4bvANWQ https://amzn.to/3KcG5KX
 検索して驚いたのだが、岸田国土 国士訳が青空文庫に収録されていた。挿絵付きなので、青空KINDLEでPDFにしタブレットで読むのをお薦め。
ルナール Jules Renard 岸田国士訳 博物誌 HISTOIRES NATURELLES


旺文社文庫岩波文庫は辻昶訳。岸田訳のあとなので、こちらの方が文章が流麗。でももう古いな。あと、ラヴェルが5つに曲を付けた。ルナールは初演を聞いて困惑したそう。ルナールはモダニストではなさそうだから、そういう反応だったのだろう。11歳年下のラヴェルの気取り顔とルナールの微苦笑を想像して、いやあ、ほほえましい。)

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