医師にして殺人者が自分の犯罪を告白するという犯罪小説。ヘクター・オストリッチは頭がいいが、内向的で自尊心の強い青年。彼がチャンスをもとめて田舎町に来た時、その町の不動産会社社長の息子が射殺されるという事件が起きた。警察と探偵が必死に捜査するにも関わらず、迷宮入りとなる。しかし、ヘクターは実は事件の現場を目撃していた。19世紀のことで街燈もないため犯人の正体はわからない。殺された息子は親の期待を裏切り軍人を目指していたために親子間に反目が起きていた。彼に解雇された経理の社員が「あれは父親が犯人だ」を愚痴をこぼすのを聞いて、ヘクターはいよいよ確信を深める。
この会社社長には美しい娘がいて、ヘクターは一目ぼれ。必死の求愛で結婚し、ロンドンでさらに出世を目指そうとする。一方、この会社社長の俗物性にほとほとの嫌気がさし、次第に殺意が芽生えていく。そして、息子の事件から7年目の同じ夜、ヘクターは社長を事件現場に呼びだして、「お前が犯人だ」と告発し、射殺してしまった。そして以前の事件と同じく、迷宮入りとなる。
ストーリーの骨格はこのようなもので大部分は「私」=ヘクターの心理が描かれる。すなわち、彼が社長を殺害する権利を有すると確信するのは、1)自分が誰よりも優秀であり、人間全体の利益に貢献できること(実際に、リューマチ研究と治療の権威になった)、2)一方殺害されるものは俗物であり、金の亡者で、慈善事業に熱心なのも人の賞賛を得たいがためのエゴイストであり、人に不快をもたらす役立たずである、3)しかも彼は殺人を犯し、罰から逃れているから、というような理由。ここらへんはドスト氏「罪と罰」と同じ主題。まあ、自分を英雄であるとみなすもの、世界を独我的に構築しているものによく見られる形である。自分と他者との間の対称性を意識しない皮相なものである。面白かったのは、自分の頭のよさとか、冷徹さを披露したいという優越感のためか、社長殺害の事件ののち、聞き込みに訪れた探偵に「もし自分が犯人であればすべての謎は解決する」ととくとくと推理を披露するところ。探偵は「あなたのような優秀な人がこんな利益にならない犯罪を犯すはずがない」と述べて、一笑にふしてしまう。同じような描写が「罪と罰」でもあったような。ここらへんの優越感の描き方はみごと。
とはいえ、ある錯誤からこの事件の真相が知られる。すなわち、最初の事件の解決に錯誤があったからだ。なので。ヘクターはこの自叙伝を書き残ることにした。著者は、殺人行為、いやむしろ行為を正当化する理屈を非難するために、タイトルに聖書ルカ伝からとった言葉を掲げる。人を助けるものはまず自分自身を断罪せよ、ということか。
この本が犯罪小説であって、「罪と罰」にまでならないのは、ヘクターの改心がたんに自分の錯誤であることに気付いたからかな。彼の他者殺害容認の思想もその程度のことで覆される、ないし瓦解する程度の皮相なものであるからなのだろう。あるいは断罪されることを恐れない覚悟の差とでもいうのかな。もうひとつは、ヘクターが医者で学者で資産もちで、社会の貧困や格差を体現していないことも皮相にする理由のひとつ。さらに大きな財産を得るため、傷ついた自尊心から復讐することが彼の殺人の主な動機。彼にはラスコーリニコフのような劣等感は強くないし、世界を呪詛するような卑屈な精神とは無縁。ジェントルマン階級はジェントルを実践せよという社会的な規範でもって彼を見ることになる。したがって多くの読者の共感をもたない。なので、ラスコーリニコフを考えるようには、ヘクター・オストリッチを考えることはない。
フィルポッツは1862年生まれ。「赤毛のレドメイン家」でこの国では有名。「赤毛」で印象的なコモ湖がこの本でも描写される。1935年に書かれたというから、当時の探偵小説の書き手としてはとても長命なひと。そのぶん、小説技法は古いかな。