odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

クリストファー・ブッシュ「完全殺人事件」(講談社文庫) 「完全殺人」を予告する愉快犯を実直な捜査で追い詰める。乱歩が黄金時代ベスト10の番外に選出した佳作長編。

 「その朝、マリウスと署名された慇懃無礼きわまる投書がロンドンの主な新聞社と警視庁に届いた。興味本位に受け止められ、あるいは持て余された文書は、結果的に五紙が掲載、英国全土に話題を撒いた。第二第三の手紙で日時と場所を指定し、正面きって「完全殺人」を予告するマリウス。やがて文字通りの事件が…。傲岸不遜な犯人の、金城鉄壁・森厳壁塁の勝算を突き崩す方途は。」
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 殺されたのは、偏屈なトーマス・リッチレイ。莫大な資産を持っているにもかかわらず、女中二人を雇って、静かに暮らしている。彼が殺人予告の夜に殺されたのだった。この男は独身であったが、4人の甥がいた。ひとりは弁護士、そのほか、牧師、俳優、教師。資産を得たものもいれば身を持ち崩したものもいる。彼らを尋問した警官の印象は「どいつもいやなやつ」。そのうち、捜査線上に一人の容疑者が現れるが、彼には鉄壁のアリバイがある。殺人現場はロンドンの郊外ではあるが、同日同時刻に容疑者はフランスの、しかも南方カルカソンヌにいたのだった。この謎に挑むのは、デュランゴ商事に雇われた経済相談部トラヴァースとかつての敏腕刑事フランクリン。なにしろこの謎解きに複数の新聞社が多額の懸賞を出していたのだった。
 よかれ悪しかれイギリスの探偵小説であって、適度な気品、適度なユーモア、適度な風景描写、適度な冒険、適度な謎解きと中庸をこととした作品に仕上がっている。こういう緻密な謎解き(ほとんどアリバイ崩しで、屋敷への侵入方法や事件前後に目撃証言がほとんどないことなどにはまず言及されない)で話が進むのは、やはりかの国の読者でのみ有効であるのだろう。変なイメージだとおもうけど、ロックなどのイギリス経験主義哲学の伝統がこういう小説を書かせたのだろうなあと連想してしまった。憶測や予断でとんでもないアイデアを披露し、物笑いになる人が出てこないところあたり。物事は、事実の収集とその分析からはじめるべきで、証拠がある程度そろってから論理を展開していきましょう、そうすれば推測だったところを埋める物証や証人を得られるでしょう。その積み重ねですよ、捜査というのは。灰色の脳細胞のホームズ(アレッ?)なんかじゃなくて足でかせぐルコック氏を見習うべきです。これが作中の探偵たちの主張。
 書かれたのは1929年と英米探偵小説の黄金時代の最中であるが、ストーリーの作り方、キャラクターの作り方は相当に古い。読んでいて、フリーマンとかフットレルとかオルツィなんかを思い出したなあ。これらの短編小説に20世紀初頭の冒険小説のテイストを加えると、この小説になるのではないかしら。作者のほかの作品を差し置いて、この小説ばかりが有名になったのは(一時期は創元推理、新潮、講談社、たぶん旺文社も、の文庫で違った訳がでていたのだ)江戸川乱歩が黄金時代の探偵小説ベストテンの番外に選んだからだろうが、これはちょっと不幸なこと。これはもっと古い時代の探偵小説のカテゴリーにおくと意味のある作品だとおもう。
 まあ、あとモンティ・パイソンのスケッチにある「鉄道オタクばかりの家でおきた殺人事件」というのを思い出し、イギリス人というのは時刻表を見るとか、もっとも最短な移動方法を考えるとか、こんなところに興味があるのだねえ、という感想。せっかくの「殺人予告」という趣向には全然触れていないのだから。クイーンならそれだけで凝った作品を書いてしまうよ(もちろんクリスティやカーにその種の作品があることは承知の介)。
 「The Perfect Murder」というタイトルらしいから、「『完全殺人』の事件」のほうが内容を捉えている。売れるタイトルではないね。