odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

ヴァン・ダイン「僧正殺人事件」(創元推理文庫)-1 ミッシングリンクとサイコパス殺人の元祖

 ニューヨークの高級住宅街にある世界的な理論物理学者ディラード教授邸と「数学の天才」ドラッカーの家が並ぶ敷地で若者が殺されていた。アーチェリーの矢で射ころされた青年は本名からつけられたあだ名が「クック・ロビン」。彼のライバルは雀でもあるスパーリング。まさにマザー・グースの歌詞そっくりな事態の起きた事件だったのだ。しばらくたって、スプリーグという数学専攻の大学生が射殺される。これもマザー・グースにある歌の歌詞の通り。それぞれの事件には「僧正」と署名された手紙が残されている。童謡の歌詞通りに連続殺人をする無名の殺人鬼がいると、周囲はいろめきたつ。
 殺された被害者はいずれもディラード教授(痛風で杖がないと歩けない)に縁のある人。クック・ロビン氏は教授の娘ベルのボーイフレンド。スパーリングもロビンと一緒にディラード邸に出入りしている。スパーリング青年は、ディラード教授の教師で数学者のアーネッソン教授(皮肉屋で毒舌家)の教え子で、やはり出入りしていた。この教授のまわりには、数学や物理学などの研究者が多く、上記のドラッカーもそうだし(この人は脊椎カリエスで身体障碍をもっている)、隣家のパーディも数学好きでチェスの定跡発見に夢中(しかし、カパブランカルービンシュタインなど当時の大家には負け続け)。「僧正」の残した手紙にはテンソルの方程式が書かれているなど、どうやら高等数学を知っているものらしい。
 そして、せむし(ママ)のドラッカーが崖から突き落とされたり、マフェット嬢ちゃんが誘拐されるなど、マザー・グースの童謡に見立てた事件が連続する。通常の警察捜査では、どうにも事件の関連がわからなく、マーカスとヒースは焦燥。さすがのヴァンスもディラードやアーネッソン、ドラッカー、パーディなどのインテリ相手には分が悪い。
 1929年の大作にして、傑作。通常は「マザー・グース」見立て殺人の元祖や本家として有名。まあ、それはそうだが、ここでは別のことに気付いたので、いくつか。
・ヴァン=ダインは「謎―捜査―解決」という本格探偵小説のストーリーをつくる。しかし、捜査における長い尋問と現場検証はどうにも退屈になってしまう。そこで「グリーン家」では事件を複数にして、ストーリーを早くした。「僧正」ではさらに、連続する事件全体の謎を設定する。すなわち「マザー・グース」に見立てた理由であり、それぞれ無関係な事件に通底する意図(ミッシング・リング)があるかもしれないと示唆すること。そうすることで、個々の事件で不可能犯罪であることやオカルトな意味づけがなくても、読者が退屈しないストーリーを作ることに成功した。「僧正」で作ったテクニックは後続の探偵小説作家に模倣され、変奏され、パロディにされる。この2作の影響はきわめて大きい。
・犯人である「僧正」の行動がのちの「サイコパス」殺人の元祖でもあること。たまたま犯人の事情で犯行現場が極めて狭い場所で起こり、関係者がある一家、一族に限られてしまったのだが、路上の事件がディラード教授やドラッカーらこの館につながるまでをゆっくりと丁寧に書けば、のちのサイコパス殺人の小説になるだろう。その点で、「僧正」は「オッターモール氏の手」「九尾の猫」などの先駆になる(最近のはよう知らん。しばらく前のだと、たとえばハリス「羊たちの沈黙」あたり)。
・そのせいか、物証を提示できないヴァンス探偵は犯人に対して超法規的な措置を個人的に実行する。同じことをドルリー・レーンもある事件で実行する。繰り返しになるが、このような警察権を持たない人間が個人的な理由で報復や処罰を実行するのは現実世界ではあってはならない。法の執行を個人や一族から切り離し、共同体や国家に委託するようになったのが、近代の国民国家だから(ロック「市民政府論」)。
・「数学と殺人」の章でヴァンスは犯人をプロファイリングする。その異常心理の解剖は例えば江戸川乱歩を熱狂させたものだ(「探偵小説に描かれた異様な犯罪動機」など)。でも、書かれてからおよそ100年がたち、現実の事件を思い起こせば、この動機で殺人事件を起こした者はいない。なるほど大衆蔑視のすえに民衆嫌悪に至る心理のプロセスは多くの人に見られる。しかしその動機だけでは無差別殺人には向かわない。もうひとつ貧困と差別が加わらないと、殺人実行には至らない。そのかわりに、大衆蔑視と民衆嫌悪を持つ人物が権力を掌握したとき、自分でやらずに組織に命じて大量殺戮を行う。20世紀のさまざまな革命やクーデターで生まれた権力者に、大小さまざまな差別主義団体に、その暴力と虐殺の系譜が見られる。なので、あの章は独裁者や差別扇動者の心理分析として読める。
・ヴァンスはここでは文学趣味を発揮。そういう登場人物がいたせいもあるが。なので、彼はイプセンやハウプトマンなどの当時はやりの戯曲を読む。そしてイプセンの戯曲「王位をねらう人々」にこの事件の「犯人」を発見する。おお、これは小栗虫太郎「黒死館殺人事件」で法水探偵のやったことではないか。わはは(ほかにも「僧正」のストーリーや小技が「黒死館」に反映している)。

2017/04/25 ヴァン・ダイン「僧正殺人事件」(創元推理文庫)-2 とヴァン・ダインの二十則「探偵小説を書くときの二十則」について 1929年に続く。


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 1930年にウィリアム・パウエル主演で映画化された。
https://archive.org/details/the-bishop-murder-case-basil-rathbone-leila-hyams-roland-young-alec-b.-francarchive.org


 ファイロ・ヴァンスの推理は誤りだったという「僧正殺人事件2」。若き日の名探偵が登場。
2018/10/23 山田正紀「僧正の積木唄」(文春文庫) 2002年