odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

タン・ヨウ「人、中年に至るや」(中公文庫)

 「−−−これはインクではなく私自身の血と涙の一滴一滴で煉り上げられた作品だ−−−中国文化革命の嵐の中で苦悩し、その抑圧から立ち直ろうとする眼科医師と技師夫婦の、すべてをすてて仕事にかける中年世代としてのよろこび・悲しみを通して、中国がかかえている現実を鋭く描き出した、中篇小説賞受賞の問題作。(裏表紙のサマリ)」

 発表が1980年なので、背景を理解しないとわかりにくい。主人公はおそらく1940年前後の生まれで、1960年の大躍進運動のころに医学生となり、その後、眼科医になる。1965年の文化大革命で、知識人一派として紅衛兵たちにつるし上げられたり、外国文献の入手制限にあったりする。金属加工の技師を患者に持ったときに、プロポーズされ夫婦となるが、四人組の政権下で科学研究は全面的に停止され、夫は閑居することになる。彼らの政権下で知識人たちの昇給、昇進が全面的に止められ、40歳になった現在も安い給料で生活が苦しい。1976年に四人組が失脚して、科学研究が推進されることになり、夫は研究所に詰めきりとなる。主人公の医師は、多忙な仕事とひくい給料、二人の幼児(小学校低学年と幼稚園)の世話もしなければならない(彼らは核家族で舅や姑はいない)。社会の大規模な変化がおきたにもかかわらず、個人のセイフティネットが不足し、インフラも整わず、矛盾や問題が40代の中年に集中する。とりわけ1940年代生まれの人たちは政治に翻弄された。主人公の「辛抱強く耐える、自分の利得を捨てて他人に尽くす」という生き方。この国の戦前生まれの人たちの生き方によく似ていて、いかに彼ら・彼女らに負担や苦労が押し付けられていたかがわかる。
 以上の背景の下で、主人公の医師が勤務中に心筋梗塞で倒れるというところから始まる。彼女が意識を取り戻す間に、過去を振り返り、不遇な状況や現在の問題を見ることになる。主人公と対比する人物として、彼女の友人が現れる。1976年以降の開放政策で、カナダに家族ごと移住する決心をする。選択をする決心になったのは、研究の最前線から取り残された遅れを取り戻すこと、過去の実績にふさわしい給与や収入を得ること、子供の養育を十分に行えるサポート体制があること、その他。たぶん当時は一度出国したら帰国できないようになっていたのかもしれない。彼女も帰国できないことを認識している。「天涯の弧客」になるのだと故事を引用する。このあたりの感情はこの国にいるとなかなかわかりにくい。出国したら戻れない、故郷と連絡がつかない、という状況はこちらの国ではあまりないから
 主題は、社会の中堅である中年世代の不遇とサポート体制の不足あたりになるのだろう。物語は、主人公が意識を回復し、退院するところで終わっているのだが、より大きな困難はこの先にあるはず(妻の看病で一ヶ月は欠勤した夫はどうなるのだろうか、妻が回復してふたたび医師にもどることができるのか、子供の養育は十分に行えるのだろうか、など)。妻への愛情を夫が回復するというのは、希望を期待するのだが、経済の問題が解決されていないので、一歩ごとに躓く主人公のラストシーンの足取りは彼らの今後の厳しさを予感させる。
 周辺人物の描き方も秀逸で、彼らの上の世代でマネジメントに苦労する老院長、白内障手術を受ける陽気でおしゃべりな農村の爺さん、地方共産党幹部の妻で権威をひけらかす「マルクスレーニン主義婆さん」、いたいけな少女など印象深い。
 文庫初出は1984年。この物語は背景は古いが、主題は今日的。バブル直前の時期には浮いた感じがしたものだが、低成長経済と高齢化社会になった今日ではより切実な内容になっている。