odd_hatchの読書ノート

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アンドレ・マルロー「人間の条件」(新潮文庫)

 1933年の作。この前にマルローは1925年にインドシナにわたり、帰仏の途次、中国に渡り国民党政権に協力した。1926年に帰国した。
 小説の背景は1927年3月の南京事件共産党指導のもとに労働組合ゼネストを開始。それにあわせて、党員の武装部隊が警察その他を襲撃した。当時、南京には欧米、日本各国の領事館があり、襲撃の対象になった。南京はいわば欧米各国の共同統治になっていて、軍人が駐留すると共に企業や官僚が多数派遣されていて、日本街とかフランス街のような区域があったわけだ。中国共産党が大規模な蜂起を組織できたのは、コミンテルンから派遣されたソ連共産党ボロディン指導力と資金力による。一時は、市街の大部分を掌握したが、各国軍体が派遣されて、鎮圧を開始する。さらに、蒋介石の国民党軍も南京入りする。ここで蒋介石1924年に成立した国共合作を破棄し、共産党弾圧に転じる。だいたいこのような事件。
南京事件 (1927年) - Wikipedia
 あと、これにより共産党は南京の拠点を失い、南方に移動しなければならなくなるとか、井崗山に立てこもる共産党内の覇権争いで毛沢東が勝利し、それまでの都市蜂起から農村解放に方針を転じることになったとか、重要な転機になったことを共産趣味者は抑えておいたほうがよい。スノー「中国の赤い星」、スメドレー「偉大なる道」など。
<参考エントリー>
横光利一「上海」(岩波文庫)

 さて、小説はこの事件を背景にもっているとはいえ、大状況を把握する人物は一人もいないし、作者が縷々説明することもない。あくまで、多数の登場人物が体験する視点の範囲で把握できることだけが記述されている。そのとき、形容詞も副詞もほとんど使われず、比喩も登場しない。ジャーナリズムの乾いた文体で淡々と事実が記載されるだけ。内面の描かれることは多いが、観念の言葉はまず表れず、肉体と感情のみが書かれるだけ。読者は、だれかに感情移入することもできず、暴力に蹂躙されていくか、死を迎えるまでを読むしかない。何人かの人物を紹介しよう。
・陳(ツェン) ・・・ 蒋介石を暗殺する決死隊のひとり。武器を強奪するために、艀の船員を刺殺している。そして、最初の暗殺に失敗。2回目には爆弾を抱えて、蒋介石の乗る車に突入する(不在のため暗殺には失敗)。笠井潔「復讐の白き荒野」を参照。
・ジゾール ・・・ 元社会学の教授。北京大学蒋介石によって放校され、南京に移動し共産主義思想を労働者に教える。まあ地元の党員の思想的黒幕であるのだな。この事件で一人息子の清(キヨ)が死に、神戸に戻る。そこで自分の思想が敗北したことを認識する。アヘン中毒。
・清(キヨ) ・・・ 日本で教育を受けた後、親と共に南京に渡り、労働組合を組織。陳と共産党と仲介する役目。メイという嫁がいる。国民党軍に捕らえられ、収容中に青酸カリで自殺。
・メイ ・・・ 清の妻で医師。小説にはほとんど登場しない。ジゾールと神戸に渡った後、ウラジオストック経由でソ連にわたることを決意。
・カトフ ・・・ ソ連共産党員。ゼネストからの労働者蜂起を指導。共産党のアジトに立てこもり、国民党軍と銃撃線の後捕えられる。収容所で清と再会し、自殺しようとするも失敗(暗闇で青酸カリを失う)。生きながら焼かれるという処刑を受けたらしい。
・クラビック ・・・ フランスの男爵。武器密輸業者の老人。清らに国民党の弾圧が始めることを伝える重大な任務に就きながら、博打で全財産をすってしまう。
・フェラル ・・・ 銀行、鉄道、鉄鋼などの各種企業を統合する財閥の当主。武漢政府と通じていたために、この事件で資産と利権を失うことになる。
 この小説では各国軍隊が出動したことには触れていない。国民党軍と警察が労働組合共産党員を摘発、ときに銃殺したように語られている。それはまあ、よい。
 上記のように、このような巨大な政治事件と暴力が出動するとき、行動する人々はみな破滅に向かっていくことだ。それをみな自覚している。そして破滅を回避することができないことを知っている。ここで気分というか気持ちがニヒリズムになり、身体をひどく軽視する。といって、彼らのもつ観念というか考えが正しいという信念もないのであって、気分はどうにもいがらっぽい。自爆テロルの直前の、青酸カリを飲む直前の、憲兵の取引を拒否するときの、ソ連に渡る決意をするときの、それぞれの行動の直前には冷たい孤独感だけがある。その冷たさは他の小説ではめったに味わえない。(この感想を書き始めるときは登場させるつもりはなかったけど、サルトル「壁」の処刑前の描写笠井潔「熾天使の夏」の賭博などのシーンはこれの前では色褪せる)
 ではなにが「人間の条件」であるのか。うーん、まだよく分からない。
(念のため。このころのマルローは共産主義にシンパシーをもっていた。それが崩れるのは独ソ不可侵条約締結の後から。さらに、フランスが戦争に入ると即座に従軍し、負傷で収容所に入るもすぐに脱走し、レジスタンスに参加している。)