odd_hatchの読書ノート

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阿波根昌鴻「米軍と農民」(岩波新書)

伊江島沖縄本島の北部から西にある島。明治維新後、零泊した武家が移住し、開墾がはじめられた。土地が貧しいので、多くの人を食わせることができず、多くの若者が島を出て働きにでかける。著者・阿波根さんはとりあえず1903年生まれということになっているが(徴兵逃れのために正しい戸籍を届けなかった。当時よく行われた手法とのこと)、20代になるまえにハワイ、アメリカなどに単身でわたっている。しかし、体を壊したこと、日米関係が悪化したことなどが原因で1930年代に帰島し、雑貨店を経営する。ここまではそれほど特徴的なことではない。

 1952年サン・フランシスコ条約締結によって本土の占領は終了したが、沖縄はアメリカ統治のままであった。そのときに、米軍は伊江島に目をつけ、1953年に地主150名に立ち退き要求をだす。すなわち、ここを飛行場と演習場とするのが目的であった。契約によると、立ち退き料や慰謝料、その他の優遇策が書かれていたが、移転先は土地のものも見放した岩石だらけの荒れ地である。強制収容の際には、家のものは暴行を受け、家財道具を運び出す余裕もないまま家は破壊されるか焼かれた。収容された土地は朝と夕方の農地利用が認められたが、演習のたびにサトウキビ、イモなどの農作物は焼かれ、あるいは勝手に兵士が入り踏みつけられる。土日は演習を行わないと歌っていたが、実行されることはなかった。一家族21円/月の補償金では生活ができず、まともな家を持たない人々は病気と飢餓に苦しむ。そうなのだ、1950年代に彼ら立ち退きを命じられた農民の中からは栄養失調による死者が数名でている。また簡単な現金収入のために、演習後の薬莢を回収し屑鉄屋に売ることをしていたが(富士山麓の演習場でも同じことをしていた)、ときに不発弾が爆発し、死者が出ている。米軍は当然、彼らへの補償を拒否した。
 ここで感動的なのは、彼ら地主が即座に基地反対運動を起こし、米軍と沖縄政府に対し陳情その他を行うことである。しかもそれは島民のほぼ全員が参加する(できなかったのは、役所勤めの人くらいになるのだろうか)。とりわけ苦しいときには、「乞食行進」という家族そうぐるみの情宣を沖縄本島で行ったことか。そういう苦しい経験(という言葉のなんと貧しいこと)を経たのち、彼らの運動は1960年代において一部の土地の返還を実現させる。最大時には島の60%を収容されていたのが、60年代末には40%にまで縮小されていた。同時にこのような運動の結果、島に派遣される兵士の質はよくなり、ときには兵士と島民の交歓もあったという。ユニークなのは、島唄を作り、集会や街頭情宣の最後に披露しているということ。祝祭的な雰囲気をもたせ、楽しさや気分晴らしも一緒に行っているところ。
 個々の運動、ないし事件というのはほとんどかかれない。そのような記録を残す余裕を彼らがもてなかったからであるが(多くの島民が不当逮捕を経験している)、そこよりも運動の方針に注目するべきだろう。たとえば、短気を起こすなとか、相手には敬意を払えとか、代表は作らないとか。その続きで自分らの権利と責任を主張するとか。こういう文章がビラに書かれる。

「以上私は誠意をもって書きました。(略)皆様が島を守り、子孫の繁栄のためご努力を続けられ、必ず勝利することを期待いたします。(P154)」

 あるいは米軍への基地反対看板にこのように書く。

「他国民に耐えた 与えた不幸は間違いなく自国民の上に帰ってくる。(略)われわれは米国民の上に不幸の来ることを望まない。親愛なる米国民よ、われわれの訴えは米国民を永遠の繁栄に入る正しい真理の道であることを理解してもらいたい。/すべて剣をとるものは剣にて亡ぶるなり(聖書「マタイ伝」26.52)」(P180)。

運動から発せられた言葉の中でも、思想と倫理の深みにおいてこれを凌駕するものはめったに見られない。
 この運動はたぶんあまり知られていないだろうし(自分もこの本以外の情報を持たない)、この本も品切れの様子。残念(いいえ再販されていました)。この本に書かれた「陳情規定」「軍会談にあたっての態度と心構え」は繰り返し読まれるべきであり、市民運動その他の運動の基本になるべきである。

2012/08/28 阿波根昌鴻「命こそ宝」(岩波新書)