odd_hatchの読書ノート

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一ノ瀬俊也「日本軍と日本兵」(講談社現代新書)-2 戦闘で被害を受けたはずの日本人が占領軍に従順だったのは時刻の政府と軍隊を信用しなかったため。

2022/12/12 一ノ瀬俊也「日本軍と日本兵」(講談社現代新書)-1 2014年の続き

 

 太平洋戦線での日本軍は、奇襲と集団突撃か陣地とたこつぼによる防御かの同じ戦法を繰り返した。米軍との戦いで創意したのではなく、中国戦線での成功体験を繰り返していたとみたほうがよさそうだ。前者は敵の戦意をくじいて退却させることを目的にしていて、後者は貧弱な装備と乏しい物資で抵抗を長引かせることを目的にしていた。その対抗方法は1942年から米軍は進めていた。

第三章 戦争前半の日本軍に対する評価 ガダルカナルニューギニア・アッツ ・・・ 1942-44年上半期くらいまで。主な戦術は奇襲と突撃。米軍は対抗陣地をつくり圧倒的な火力で対抗した。ことにガダルカナル島アッツ島の勝利で米軍のなかで日本軍の評価が下がる(超人兵神話が崩れる)。後者の陣地に立てこもる防御は米軍の戦車に対抗する火力を持っていないことが理由。日本軍は銃器の改良には熱心だったが、機械化は行わなかった。人間の肉体を消耗する軍隊であり続けた。
NHKが2019年にガダルカナル島の戦いの検証番組を作った。日本軍の戦術は最初から自殺目的ではなかったし、アメリカ軍の陣地戦に有効だった。火力の違いで陣地を奪取することはできなかったが。違いがでたのは制空権制海権を持たない日本軍は補充や物資を送れず、飢餓と病気で兵士が消耗したことだった。これはほかの島嶼部の戦いで繰り返される。また陸軍のみならず海軍、空軍も日本軍の戦法や兵士の質などを分析し結果を公開した。空や海の戦いでも日本軍の戦法は通用しなくなる。くどいが、日本軍の資料で当時の日本軍が敵の分析をして情報を共有したというのをみたことがない。)

第四章 戦争後半の日本軍に対する評価 レイテから本土決戦まで ・・・ 1944年10月のレイテ戦以降。日本軍もある程度の範囲で戦術の変更や改良を加えるようになった。しかし圧倒的な物量差、特に戦車の存在に手を焼き、肉攻を行うようになる(特攻とは別)。将校不足が目立ち、現場の参謀と大本営との意見相違も生まれる。このころには洞窟や陣地で持久戦を戦うようになり、準備が良く本土に(比較的)近くて補給ができた硫黄島や沖縄では長期戦ができた。このとき、戦術目的は本土決戦のために時間稼ぎであった。
(ファナティックなバンザイ突撃はこのころには少なくなる。撤退して別の陣地で戦う持久戦になっていた。代わりに海軍と航空部隊は特攻が主要な戦術になっていたのだ。
(兵士の手記や遺書を読むと(「きけわだつみのこえ」など)、戦場にあっても日本兵は狂気に取りつかれていたわけではない。散華を積極的に選択する意志や思想はなく(そこはイスラム自爆テロとは異なるはず)、別の動機がバンザイ突撃や特攻を行わせたのだろう。)

終りに 日本兵とは何だったのか ・・・ 著者の感想。

米陸軍広報誌「InteIgence Bulletin」の描いた日本兵たちの多くはの描いた日本兵たちの多くは「ファナティック」な「超人」などではなく、アメリカ文化が好きで、中には怠け者もいて、宣伝の工夫では投降させることもできるごく平凡な人々である。上下一緒に酒を飲み、行き詰まると全員で「ヤルゾー!」と絶叫することで一体感を保っていた。兵たちは将校の命令通り目標に発砲するのは上手だが、負けが込んで指揮官を失うと狼狽し四散した。(P245)

 そういうちょぼちょぼのにいさん、おっさんたちは現場では合理的であろうとしたが(さまざまな社会的・集団的制約はあるにしろ)、戦争責任者たちは体面やメンツにこだわり、敵に痛撃をあたえれば講和に応じるだろうという妄想で戦闘の継続を命令する。日本人の生者への冷淡や無関心、命の軽視によって、生きているものに自殺的行為を命じ、死者を顕彰した。それが日本人にも敵にも戦闘地域や占領地域の人にも被害を拡大した。さらに本土決戦をどう考えていたか。本書によると、日本軍は勝てると思っていなかったし、米軍は平野部では洞窟にこもる持久戦には容易に勝てるとみていた(陣地を突破しないで迂回し孤立させればよい。硫黄島や沖縄では迂回路がなかったので対峙して戦闘せざるを得なかった)。

 

 日本軍を他者視点でとらえようとする試みがおもしろい。サンプルがアメリカ陸軍だけで、おもには南洋のジャングルや島嶼部の戦いに絞られる。ほかにアメリカの海軍や空軍による評価や対策をみたいし、なにより中国軍から見た日本軍の評価が大事。主要論点は毛沢東「遊撃戦論」に書かれているかもしれないが、他の人のも読みたい。日本人が日本軍を見ようとすると、非合理・精神主義・ファナティックな戦法などの画一的な見方になりがちで、かつ兵士の悲惨を際立たせてしまいがち。それを回避するために、他者視点の評価と突き合わせることは重要。

 著者の指摘でうーんとうなったのは、もともと強い敵愾心をもっていたわけでもなく親米(文化)感情はあったとしても、戦闘で被害を受けたはずの日本人が占領軍に従順であった。それは占領軍が民主主義の理想や商売・収入のタネになっていたこともあるが、自国の政府を信用しなかったから。なるほど政府を信用しない国民感情はたとえば以下のドキュメント、歴史研究、ノンフィクションなどでわかる。
2015/04/10 竹前栄治「占領戦後史」(岩波現代文庫)
2021/01/29 雨宮昭一「占領と改革」(岩波新書) 2008年
2015/04/13 読売新聞編集部「マッカーサーの日本 上」(新潮文庫)
2015/04/14 読売新聞編集部「マッカーサーの日本 下」(新潮文庫)
2014/10/17 柳広司「トーキョー・プリズン」(角川文庫)
 でも日本人は政府を信用しないといっても、権威が消えれば(占領軍が撤退すれば)、時間の経過とともにふたたび古い権威を信用するようになる。国民で政府の体制を作るという経験をしていないので、国家への感情が信用-不信用の間を揺れ動くだけで、みなで作った国民国家をまもるというナショナリズムは生まれない。日本のナショナリズムは「古い伝統ある」国(国民国家ではない。権威主義的封建的な国)を保持しようというものばかり。

著者インタビュー

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