odd_hatchの読書ノート

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トーマス・クーン「科学革命の構造」(みすず書房)-2

2018/05/29 トーマス・クーン「科学革命の構造」(みすず書房)-1 1962年


 通常科学と科学革命の説明のために、科学史のできごとが前置きなしで説明される。だいたいは高校教科書に載っている話(20世紀前半の物理学は大学の教養課程ででてくるものかな)。教科書の記述だけでは不足すると思うので、本書を読む前に、物理学、天文学、化学のそれぞれの科学史を読んでおいた方がよさそう。

第九章 科学革命の本質と必然性 ・・・ 科学革命は、古いパラダイムがそれと両立しないパラダイムに部分的または全体的に置き換えられること。パラダイムの移行期には相互で比較の議論がおこるが、かみあわないことがあり、問題を解きやすいかという科学(あるいはパラダイム)の外の基準で答えることになる(科学の理論から新しいパラダイムが選ばれるのではない)。科学革命が起こると、科学の再定義が行われ、古い説明を新しいパラダイムに基づいて書き換えられ(古いのは非科学的とされ)、科学の問題基準が変わり、哲学的命題の基準(たとえば空間や時間の定義)が変わる。
(この章は難解(むしろ散漫)で、要領を得ない。このあとの10から13章までのサマリーなので、詳細はこのあとの章を見たほうがよい。)

第十章 世界観の変革としての革命 ・・・ 科学革命が起こると新しいパラダイムを受容した科学者(および科学のステークホルダー)は、世界認識(この本では「ゲシュタルト」で説明することもある)を変える。今まで見ていたが記述する価値や意味を認めず放置していたものがあらたに「見える」ようになる。そのようになるには新しいパラダイムに基づく再教育をして、知覚的概念を再構成する手続きを経なければならない。それは逆に言うと、科学者はパラダイムとそれに規定された現象を照合させるように認識と現象に関係できるものを選ぶ。
(なので、データは他の解釈を許さないほど厳密で安定したものであるとはいえない。ケプラーが前任者のデータを利用してコペルニクスを補強するアイデアを出したことが例のひとつ。)

第十一章 革命が目立たないこと ・・・ あたらしいパラダイムが科学者に定着すると、教科書・啓蒙書・哲学的著作などが書かれる。論文と異なる文章で、科学者は過去の革命を記録し、現在の通常科学の基礎を説明する。そこで歴史を書くときに、科学が直線的に発展し、英雄が登場し、特定の目的に向かい、知識が累積的に追加され、理論がブラッシュアップされているように記述する。当然、これは誤謬。
(過去の教科書、啓蒙書、哲学的著作を読めば、現在の科学とは異なる論理や問題意識で書かれていることは確認できる。自分の読んだものでは、
コペルニクス「天体の回転について」(岩波文庫)
デカルト「哲学原理」(岩波文庫)
ブレーズ・パスカル「科学論文集」(岩波文庫)
ゲーテ「色彩論」(岩波文庫)-1 1810年
ジャン・ラマルク「動物哲学」(岩波文庫)-1 1809年
グレゴール・メンデル「雑種植物の研究」(岩波文庫)

第十二章 革命の決蒲 ・・・ 異常科学において、新しいパラダイムを提示するのは若手かその分野の新人。多くの科学者は抵抗を示すが、徐々に専門家が新しいパラダイムを受容するようになる。大部分の専門家が改宗したあとも、抵抗するのは事実上科学者を止めたことを意味する。なお、改宗といったのは故あってのことで、新しいパラダイムの受容は理論が検証されたためではない。提示された時点では、検証を行う道具がなく。完全な証明はできていない。事実と完全に一致する理論にはなっていない(ときには古いパラダイムのほうが精度が高い場合がある)。それでも受け入れられるのは、「きれい」「要領よく」「簡潔」という科学者の美的感覚によるものだったり、成功するだろうという信念だったり、他の事象を説明できる可能性にかけてみたり、という科学の外部の基準や科学者の心証などに基づく。受容した改宗者は提案者に代わって、理論の改良や可能性の開発や専門の中の位置づけなどを表明することで、専門家の改宗を促していく。
(あたらしいパラダイムは装置や道具が不十分なので、理論や哲学的意味付けや可能性の枚挙などが先行して行われる。科学者の行動や判断が必ずしも合理的な理由で行われるのではなく、パズル解きの可能性や拡張などへの興味に基づき、非合理な理由で行われることに注意。)

第十三章 革命を通しての進歩 ・・・ 科学者集団のユニークなのは、仕事は自分の同業者向けで、評価は仲間内で行われ、社会的な問題にかかわらなくてよいと考え、科学の定義にとらわれることがないこと(加えると成果が属人的ではないこと)。それを可能にしている一つは教育システムで、専門教育は教科書を使う(ほかの学問は古典を学ぶことが重要とされる)、型にはまったもので、(科学の)危機に対処する方法は教えられない(古いパラダイムの理論や論文などは放棄するので、科学の「革命」が起きたことを知らされない)。科学は、自然の事象の将来を予測することがある程度できるが、科学そのものの進む方向を示したり予測したりできない。ここはダーウィニズムと共通。いずれも目標を示さない。
(科学者集団と教育システムについて語られる。ここで科学者集団や職業としての科学の分析はその通りだと思うが、科学の制度化@廣重徹のアイデアがないのでもどかしい。科学者が内輪向けの仕事をし評価しあい社会的問題に無関心であるのは、なるほど科学者集団そのものに由来するのであろうが、制度化されパトロンから金を引き出す仕組みになったことが重要なのではないか。科学者は一般大衆や社会的権威に対して必要性や成果をアピールすことには乏しいが、研究費を出す企業経営者や国の科学を取りまとめる官庁には猛烈にアピールするものだ。また科学の専門教育が、古典を読まず教科書を使い、型にはまったものだという指摘は納得。一世代前の科学者の書いた教科書は読むが、たとえばダーウィン種の起源」のような古典は読まない。西洋の教育では高校から古典を読むようにしていて(なにしろ母語で書いてあるから読む壁はこの国よりは低い)、哲学と科学の学士課程を同時に取得するのは当たり前とされていたので、教養の質と厚みには雲泥の差がでる。以上は20世紀の話で、21世紀もそうなのかは知らない。)


 最初に読んだときには難解と思った。今でも翻訳に問題があるといわれている(この事情については訳者あとがきに説明がある。「内容が高密度のものであるから、日本語としての読み易さよりも、原文との密着性を重んじたほうがよい」という意見を採用したとのこと)。
 この翻訳に対する議論の一例。
https://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/Articles/kuhn-excerpts.html
 ただ、四半世紀(それ以上)ぶりに読み直して感じたのは、翻訳の問題よりも、原著の散漫さにある。この「パラダイム論」自体が科学史や科学理論の新しいパラダイムを提示していて、完全な理論にはなっていない。検証するにはデータのとり方(科学史の実例)が恣意的であるようにみえ(天文学、力学、無機化学に限定されて、生物学の事例がほとんどでてこない)、対象のとらえ方があいまいで(科学の理論や法則の体系と科学者集団と教育システムの区別がよくわからない)、科学の分野のレベル分けが恣意的(物理学と電気・熱力学が同レベルで並べられているなど)。という具合。発表と同時に、賛成・批難の議論が巻き起こったのも事実(このあとの「補章-一九六九年」はそれを受けて書いたものという。そのくらいに曖昧模糊とした議論だった。
 本書の反響そのものが、本書に書かれた「科学革命」の過程を経ていた。なので、この「古典」は未整理で乱雑なところがその後の可能性を示唆するのだが、パラダイム論の教育を受けるためには、別の改宗者が書いた教科書を読んだほうがよい。
 1980年代にパラダイム論が科学史や哲学で流行になり、「ニュー・アカ」ブームといっしょになっていくつかの解説書、啓蒙書が出たと記憶。自分が最初に接したのは、日本の科学哲学者が書いた啓蒙書だったと思う。そちらの説明になれていたので、本書を後で読んだときには混乱した。今では本書の記述は多くの科学者が受容するようになっている(ただし、高齢の科学者には昔ながらの科学の進歩や知識の累積的進化を言う人が残っている)。以上の過程も、「科学革命の構造」にかかれた過程とおりになっていて、まるでパロディかパスティーシュを演じているよう。
 このように発表から20年もたつと、パラダイム論はほとんどの科学哲学者や科学史家が共有するようになった。その影響範囲は科学史を離れたほかの学問分野の歴史記述にもつかわれるようになった。自分の考えでは、パラダイム科学史に限定して使うべきであると思う。パラダイムと科学革命を他の学問分野の歴史説明に使うことがあるが(佐和隆光「経済学とは何だろうか」岩波新書)、それは拡大や応用にすぎると思う。
 ましてビジネス書に使われるのは良くない(ことにビジネス書では理解が不十分)。まあビジネス書でパラダイムが流行したのは2000年前後で、いまは使われることがない。特に心配しなくてよいだろう。パラダイムの多義性ゆえにこういう拡張が行われたので、使いずらい概念になってしまった。

2018/06/01 トーマス・クーン「科学革命の構造」(みすず書房)-3 1962年