odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

柴谷篤弘「構造主義生物学」(東京大学出版会)

 2011年3月25日に柴谷篤弘死去(享年90歳)、2011年3月31日にいいだもも死去(享年85歳)。学生のときに二人の講演を企画したことがあり、中華料理屋の打ち上げで話を聞いたことがある。今日は予定を変更して追悼企画。

 生物学を勉強するつもりで大学にはいったが、そこで行われている授業や研究が自分の考えていたものと合わなかったので、職業にすることをあきらめた。どういう生物学がありうるのか考えていたときに、同じ著者の「あなたにとって科学とは何か」「反科学論」「生物学の革命」(みすず書房)を読み、激烈な影響をうけたものだった。これらの著書では、産業界や官僚らに支配されない科学のあり方を検討し、その批判のためには外部からではなく、内部からしかも批判する対象の論理を使って行えという方針を出していた。あいにく科学の内部にいくつもりがなかったので、彼の主張を実践することはできなかったが。
 著者は還元主義的な科学の思考方法に批判的で、DNA、遺伝子でもって生物に現れる事象を説明することはできないといっていた。生物の多様性と複雑さは、DNAに収斂されるような単純な考えでは説明がつかないということだ。大学の先端的な研究がDNAやその周辺にあったこと(しかも自分のいた大学は必ずしも世界の先端にあったわけではない)を思うと、自分の違和感はこのあたりにあったのだろう。
 著者は、1990年ころから構造主義生物学を主張し始めた。生物の多様性や複雑性は生物の細胞、個体、集団に内在する構造によって発揮され、規定されているというものだ。いまのところ、概念的な主張がほとんどで、それを裏付ける実証研究はあまりでていない。著者の主張では、科学のパラダイムが転換するとき、理論的な主張が先にあらわれ、後でそれを証明する実験結果や観測結果が出てきたのであるという。例は、ニュートンの力学やアインシュタイン相対性理論であり、遺伝子のセントラルドグマの発見(頂点はワトソン=クリックのDNA構造の提案)。まあそういう先例と彼の理論をもって、「構造主義生物学」は次世代の生物学研究のパラダイムになりうると主張する。
 問題は、この本は一般的な読者を想定しているらしいが、数十年前に専門課程の勉強をしたものにとっても(それほど熱心な勉強家ではなかったが)、けっこう読み応えのある内容だった。(2004/05/14)

 「構造」という発想が、要素還元主義に批判的なところからうまれているのに注意。DNAや分子の振る舞いでもって全部説明しようとする近代科学に対抗するもの。そのとき、今西みたいに「主体性」とか「全体」なんかを持ち出すと、オカルトや神秘主義になってしまうので、科学的な定義の可能な「構造」を使っているということになる。柴谷と池田の提唱で1990年代には多くの書物が書かれ、主に人文系の読者がファンになったという。その後、成果が出てこないので運動は盛り下がっているのではないか。
 もうひとつの問題は、ソーカル事件の影響かな。この事件では、数学・科学用語を多用して無内容な主張をする人文評論家を批判するものであった。池田と柴谷の「構造主義生物学」では逆にソシュールのあれこれ、レヴィ=ストロースのなんとか、パースのなんとかあたりの概念を生物学に持ち込もうとしていた。柴谷はまずは細胞学とか発生学あたりで試みようとしていたように思えたが、池田になるともう少し適用範囲を広げようとしているみたい。柴谷だと分子生物学の成果とそれほど離れないで理論構築できそうだが、池田のように個体サイズや環境とのかかわりまで「構造」を適用しようとすると実証可能でない理論が先行するのではないかしら。あと、「構造」というのを見出すのが、研究者個人の観察力にあって、教科書になれない(師匠と弟子の秘儀伝達みたいになり、だれもが教育で獲得できる技術でなくなる)可能性がありそう。レヴィ=ストロースとかラカンにそういう批判があるものな。
 柴谷の一貫した主張として、科学革命時の理論先行性というのがあるのだが、この理論は実証可能性を持っているものだった。さてこの「構造主義生物学」はそのような検証に耐えられるところまでいくのかな。
 以上は相当昔に読んだ時の記憶で書いているので、自分の間違っている可能性も非常に高い。ここの議論はうのみにしないようにしてください。
 いいだももは読んだものがないので、紹介がありません。あしからず。(2011/4/2追記)