たぶん季刊クライシスの科学批判特集号(「技術と人間」が正しい)で、読書案内に載っていたから購入したのだと思う(1983年購入)。
1970年代の真ん中あたりにかかれたもので、この国への紹介は1980年。監修をしている里深文彦さんは当時相模女子大助教授で、イギリス留学中に著者の参加していた科学者同盟を紹介していた。
「オルタナティブ」という言葉はだいぶ一般的になってきたが、初めて紹介されたのはこの本や上記の雑誌だと思う。カウンターでもサブでもスモールでもインディペンデントでもないことばで、そこには自立・自律の考えが込められていると感じて新鮮な語感だった。
ここに紹介されるようなロウ・テクノロジーが著者やその周辺から生まれたわけではなく、昔からあるものがほとんどになる。それらが20世紀半ば以降の大量生産・資本集約型の資本主義生産機構と合わないために捨てられていて、巨大化する技術や生産によって環境が破壊されたり第3世界の停滞や貧困が進行したりしているので、再度見直そうということだ。このような運動の萌芽の時期であったために、理論化することに非常に苦労しているなあと思った。この時代、技術や政治体制は資本主義vs社会主義という軸で語られるものであり、いずれも経済発展を前提としていたので、持続型経済の主張とは相容れないところがたくさんあるのだ。それでも批判の多くは資本主義巨大生産体制に向かうので、マルクスやエンゲルスの著書の引用がたくさん出てくる。今から読み直すと、誤解の元になりそう。
第1、2章で技術からみた世界史・経済史を試みている。このような見方はあまり行われていなかったので面白かった。技術の非政治性・非イデオロギー性というのは当時の共通認識であったが(今でもそうなのだろうか)、そうではないということが説得的に書かれている。
それを受けて、著者の言う「ユートピア・テクノロジー」が紹介される。「ユートピア」というのは政治的な言葉使いだが(ユートピアを成立させる政治体制は現在の民主主義議会制とは相容れないところがあり、その点の考察なしにありうべきテクノロジーを紹介しても実現不可能になる)、そこはおいておくとして、著者は風力や水力によるエネルギー開発を称揚するが、当時の「技術」では実用化には遠かったといえる。それから数十年の開発がありようやく21世紀になってから実用化のめどが立ち試験運用が始まったというところかな。もうひとつ、著者はPCに否定的で、それは当時のコンピューターが巨大化・資本集約型の技術であり、運用も中央集権的なものとして考えられていたから。その後、PCは巨大化するのではなく、小型化分散化私的使用化が進んだ。今では多くのNPOや市民活動はPCとインターネットを前提にしないと成り立たないようになり、体制批判の道具として有効とみなされるようになっている。あるテクノロジーがアプリオリに「体制化」されたもの・オルタナティブなものに区別されるわけではなく、著者がいうように社会的な文脈で意義が変わるのだ。その実例になりそう。
こういう人たちの実践があって、ようやく持続型社会を建設する方向が見えてきた。理論的には不十分であるし、経済の捉え方もまだまだと思えるのだが、こういう先駆的な仕事があってのこと、と考えるべきだろう。そういう点で、これは「古典」になっている。
2005/3/17
この時代(1970年代)の技術は、巨大化・資本集約型を指向するものだった。それが、宇宙開発・原子力発電所・ダム・化学プラント・新幹線・巨大コンピューター・サイクロトロンなどに代表される。ここには「緑の革命」のような単一品種を大規模に栽培する巨大農業も含めることができる。
したがって、著者の提案する「オルタナティブ・テクノロジー」は小型・労働集約型・伝統志向などを指向する。しかし、当時実験されていたオルタナティブな科学・技術の目論見が必ずしも成功したわけではない。21世紀頭から(後出しで)見ることになると、1980年以降、政府や権力・資本などの主導する技術が変化してきた。それは巨大化が進んでも、そこでは収穫低廉の法則が働いて、必ずしも効率的ではなくなり、地上の環境は技術ではコントロールできるものではなくどのような技術でも適応のためにカスタマイズが必要であり必然的にコストが上昇するからである。結果として、規模の拡大を目指す技術開発の進捗はのろくなり、代わりに小回りの聞く小さな技術が現れてきた。家電・PC・バイオの分野で顕著な傾向である。特に大きいのは、それまで中央集権的な技術とみなされてきたコンピューターが小型化してきて、網状組織(ネットワーク)にふさわしいことがわかったことである。
もうひとつは1990年以降の特徴として、環境に対する配慮を政府や資本が行うようになってきた事も大きい。社会が要請するほどの速度ではないが、資本はコストをかけても環境の配慮をせざるを得ないようになってきて、「オルタナティブ・テクノロジー」が提案してきた技術が資本の側で行われるようになってきている。
したがって、著者の考えるような社会格差の是正や環境配慮、福祉の充実という社会的な課題はテクノロジーによってのみ解決するのではなくなった。もしかしたら著者の考える社会イメージは「オルタナティブ・テクノロジー」の作る社会ではその技術を持つテクノクラートが政治的・社会的問題を解決するものであったかもしれない。そこまで類推するのは著者の意向を無視することになるとはいえ、ポイントは、当時は科学者が社会に警告する・問題を提起することを行っていたということ。そのような動きは21世紀になってなくなってきたように思う。われわれがメディアで見聞きする科学者の発言は資本の側に立つような役割を果たすものになっている。科学・技術が制度化され体制化されていて、一般の人々・民衆・大衆の側に立つものではなくなってきているということだ。「科学技術が政治的中立であるというのは神話である」というのは著者のもうひとつの主張で、最終章でいろいろな例を挙げている。この事実が、今は見えにくくなるような事態であるのかもしれない。ただ最近は、企業の技術自己に対する告発がしっかり行われるようになり、厳しい批判にさらされるようになっているから(場合によっては雪印のように経営破たんすることもある)、一般的な感覚として科学者・技術者もごく普通の人で正しいこともするが、誤ることもあるという風になっているのかもしれない。それはそれで結構なこと。
2005/3/29
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