カテゴリー「科学史」をクリックすると、このエントリーを最初にして、科学史に関する本が並ぶ。カテゴリーで表示された順番に読むと、科学の歴史を概観することができる。
で、その前に「科学」を考えるときに考慮したほうがよいことをいくつか述べてみる。「科学」を問題にすることはずいぶん昔からある。社会的な問題が出てくると、科学が批判の対象になることがある。そのこと自身はよいのだけど、批判の方法はうまくないというか、紋切り型というか、的をはずしているとか、そういうことが多いので、議論を行ったり、参加する前に留意しておいたほうがいい点を上げてみる。
1.「科学」を定義するのはすごく困難。それよりも論点の「科学」が何をさしているかを明示することが重要。
たとえていうと、「理論物理学」と「金属化学」と「地質学」と「天文学」で科学の方法や主題が異なっていて、そのすべてに共通する「科学」を抽出することはすっごく困難。さらに「細胞学」と「病理学」と「生態学」を加えてみると、ハードルがさらに高くなる。「反証可能性」、「仮説-観察・実験-検証-再仮説」、「モデルとシミュレーション」、「対象の要素への分解と数値化」などくらいで科学を定義したつもりになると、すぐさま足をさらわれると思う。
むしろ「科学」を議論するときに、すくなくともつぎの3つのレベルを考慮して、どこを論点にしているか、批判しているかを明らかにしておいたほうが議論の展開やまとめに有効。
(1)科学の「知」。科学の方法とか、科学的営為で獲得した知とか、そういう言明の総体。もしかしたらポパーの「世界3」に対応するところなのかもしれない。
十分に考えていないのであいまいなまま記しておくが、研究に必要な機器もここに入るのだろうか。顕微鏡、リトマス試験紙、ビーカーのようなものから、ハッブル望遠鏡や巨大加速器、実験用原子炉などまで。それを支える技術には原理や動作や観測結果の保証が実証されていないケースもあったりする。
(2)科学者集団。科学は人の営為によって進むもので、そこにかかわる人々のは「科学」の範疇にはいる。多くは大学や公立私立の研究機関に所属する。このとき科学者集団を科学研究に携わる者と狭く考えないこと。国の科学政策を立案したり、予算を作成したり、企業の研究開発プロジェクトを管理したりするなど官僚や企業の政策にかかわるものも科学者集団である。(と自分は廣重徹に倣って考えるのだが、研究活動に従事する者だけにする立場もある)
あとここに含まれるのは、科学者養成のシステムとプログラム。科学者になるためには、(1)を網羅的に覚える教科書が必要であったり、そこに記載できない方法や営為の仕組みは先輩科学者からのOJTで学ぶ必要がある(この過程を経ない独学者は「科学者」を名乗れず、認められないのだ)。そのような金と人と設備を備えることも科学である。
(3)科学の利益享受者というかステークホルダー。という言い方をしたが、それで全体を網羅しているとは思えない。ここは非常にあいまいで広い領域。たんじゅんには科学の成果を使って物を製造する技術者であるだろうし、作られたものを消費する消費者も含まれる。医療の現場では、患者とその家族になるだろう。あるいは、生活に使われる家電製品、交通機関、情報機器、医薬品その他。そういうあいまいで、流動性の高い場所。
まあ、こんな感じ。いずれクーンの「科学革命の構造」を読み直すだろう。どこで読んだか忘れたけど、この本の中で「パラダイム」は28の定義があるという由。自分の予想では彼の「パラダイム」概念は1と2と3を厳密に区別していないで、ときにごっちゃにしているときがある。クーンのような専門家でもあいまいになるような対象であるから、素人の自分らはどこにフォーカスしているかをちゃんと押さえておかないとなんの議論なのか分からなくことがあるはず。
あと、科学や科学者を19世紀以前の古いイメージで考えることも問題を狭くしたり、現在からずれた議論にする。19世紀以前には科学研究は個人の趣味で自分の資産で研究するものであった。それができるのはジェントルマンや貴族だけで、獲得した知識は無償で同じ愛好家に提供しようというフェアネスの考えがあった。科学的な知の共有というのはこのあたりの考えをベースにしている。この時代の科学者イメージが「フランケンシュタイン」とか「ドラキュラ」などに描かれ、ハリウッド映画で映像化され、さらにマンガ・TVドラマで繰り返された。たいていの「科学」「科学者」イメージはここにとらわれている。代表的な科学者イメージはキュリー夫人とアインシュタインだともいう(吉岡斉「科学革命の政治学」)。次第に研究費がかさんでくるようになり(とくに観測機器が巨大になることと複数のチームで研究することが負担を大きくしたのかな)、資金援助を社会に求めたのであった。最初は講演会などの興業収入で、それでも足りないのでパトロンを見つけようとした。国家や企業が科学技術の重要さに目を付け、設備と人員に投資するようになった。その結果、科学者は個人が行うものから集団で行うものになり、個人の自発性より組織の目的に沿うことが必要になっていった。20世紀の戦争は科学を国家プロジェクトにして、科学者を動員した。その成果がよかったので、その後の科学研究のプロジェクト化が進められた。すなわち科学者が職業になり、公務員やサラリーマンになっていったわけ。こういうのを廣重徹は「体制化」と呼び別の人は「産業化された科学」と呼ぶが、体制化された科学と科学者は19世紀のジェントルとかフェアネスでもって仕事をしているわけではないし、自分の興味のままに研究をしているわけでもないし、研究成果がパトロンである国家や軍や企業にいいように使われるのを阻止できるわけでもない。
2.科学は未来を予知する? いやモデルを提示するまで。
天気予報があたらなかったり地震予知がうまくいかなかったりすると、いろいろ非難がでる。あなたはガンだとは告げるけど、あなたはいつガンになるとはいわない、とか不満がでたりもする。逆に「余命半年」といわれて3年過ぎたがまだ生きている、こんなに医学はあてにならない、みたいな自慢とか。
ここは自分には不思議で、科学はそもそもそんなことはできないと考えている。(1960年代の「カタストロフィー理論」、1980年代の「複雑系」「ファジー」などの流行で、モデルの設定の初期値をちょっといじっただけで大きな揺らぎが起こることは、みんなの共通理解になっていると思うけど、そうではない?)
台風の進路予想が典型的だけど、戦後しばらくは台風の予想進路は線で示していた(「機動警察パトレイバー the movie 1 風速四十米」1989年のお天気お姉さんのところ参照)。それが扇型になり、いまは円と扇型の組み合わせで示される。科学ができることは、未来の一点をポイントで示すことではない。いくつかのパターンとその可能性を提示するまで。あわせて、そのときの損得を付け加えるまで。その先の決断は別の理由や基準でもって決まる。
企業が新規事業を立ち上げるとき、モデルケースを考えることがある。このときも、ひとつのモデルだけだと上司に怒られ、ベスト・中庸・ワーストの3パターンを作り、ワーストでもこれくらいの利益になるからじゃあやろうと決断される。ワーストでこれだけの利益だけどうちの会社にはあわないからやめようとか、ベストでもこれだけの利益しかでないが本業だからやるしかないとか。それは組織とか共同体がポリシーや共同意思などで決めること。そこに科学は介入しないよ、資料の説明はするし、もっと詳しいモデルを作ることはするけど、出番はそこまで。判断するのは別の基準や総意。そこに政治が登場する。
3.科学は損得を判断する材料になるけど、善悪を判断する材料にはならない。
治療薬とか農薬とか汚染物質などを考えるとわかるように、それらは何かに得をもたらすか損をもたらすかを判断する基準がある。それをみつけるのは「科学」の役目。でも、それを使うこと全般に対して「善」なのか「悪」なのかを判断することはできない。科学者にそれをきいても、善悪は判断できない(というか科学の専門家になるために善悪を判断する道徳や倫理の授業や研修はまず行われない。科学研究でそれらが問題になることはほとんどない。なので、その種の問いには困惑するか個人的な判断しかでてこない)。そんなふうに、科学の知とか科学者の生態などから、善悪とか道徳とか行動規範をつくることはできない。
あと次にも関係するけど、科学の示す損得は、さまざまな前提条件がついていて、そのままではこの「私」の現場の問題にはそのまま役立つことはないか、少ない。利害関係者は科学の限定された損得ガイドから、いろいろ推測して最終判断を科学とは無関係に決めることになるのだ。「白黒」はっきりすることはできないし、「ゼロか1か」を決めることもできない。
4.科学は一般と特殊を対象にするけど、普遍と個別は対象にしない
普遍はすべてで100%で全体で、個別はこの「私」、この「ジョン」「ポチ」など代替不可能な個々のこと。一方、一般はほぼすべてでだいたい全部で全体の大部分をしめていて、特殊はめったにないけどときどき発生・存在することで、1であることはめったにないけどある条件では再現可能であるようなこと。あいまいでもうろうとしているかな。
科学の対象になるのは一般と特殊。だから100%と0%、1かゼロか、allかnothingか、という、結果や基準がでてくることはない。2とあわせると、ますます科学の言明とか結果とか、そういうのには確率とか割合が含まれていることに注意。「良いのですか悪いのですか」「満点ですか零点ですか」という問いには口を濁すか、こういう場合でこれくらい・もしこんな条件が加わればあんな具合になるかもと迂遠な説明をするしかない。そこは生活者の日常の感覚とか要望とかからはすいぶん違うところにある。素粒子論やビッグバンは限りなく普遍なのかもしれないし、太陽や月の研究は個別を対象にしているかもしれないけど、これは特殊な例外(という科学を対象にする科学も一般と特殊を対象にするのであった。こういうメタな議論はよい成果を挙げないのでここでおしまい)。ここは次の5のところにも関係しているよ。
5.科学は<この「私」>の問題を解決しない。
<この「私」>というのは、誰かと置き換えができず、ここにいる「私」のこと(これを読んでいるあなた自身がみたあなた自身のこと)。デカルトのいう「われ思うゆえにわれあり」の我ではないよ、これは対話や小説にでてくる一般的な「私」のこと。こちらは抽象化されている分、科学や文芸の対象にはなる。しかし、それを読み理解しようとする<この「私」>という単一な存在を対象にすることはできない。うまく伝わるかどうか自信は無いけど、科学は「犬」一般を研究するけど、個人が飼っている「ジョン」「ポチ」については科学は無知であるという具合。
で、<この「私」>に起きた問題をどうするか。不眠であるとか、耳鳴りがうるさいとか、下痢をしたとか。これらに対して科学ができるのは、過去の症例と実験・観察からみておよそ60%(数値はいいかげん)で効果が出たから、あなたにもうまくいくのではないかというアドバイス(上記2を参照)まで。まあ、このうまくいった60%にたいてい入るものだから、効果があるとされる。でも、その先までは科学は介入しないし、できない。たとえば不眠のとき、ストレスが原因だとして、睡眠薬は処方するけど、ストレスが会社のパワハラであるとしても、科学はそれを解決しない。せいぜい「休んだら」「別の会社に転職したら」とアドバイスすることまで(これは科学が言明したのではなくて、科学者が市民とか個人とか職業人の立場で言明したこと。きっちり区別しておきたいところ)。科学者集団は、そのさきにある<この「私」>の問題には介入しない。(まあ、それは公共事業でも同じであって、休暇中の所得を援助したり別の会社の求職を紹介はするけど、いちいち金を置いていったり、面接につきそうことはしないわな)。ここも誤解されそうだけど、科学は(自治体とか公共事業とかも)<この「私」>の問題を解決しないよ。解決するのは自分自身。
なぜこんなことを考えたかというと、ニセ科学、ニセ医療の推進者・企業・信奉者の言明をみると、彼らが「科学」を批判するとき、批判の矛先をあいまいにし、論点ずらしをしばしばおこなうから。かれらの曖昧でもうろうとした「主張」に対応、批判するとき、上記の区別をつけておくようにしたい。もうひとつは、このようなニセの科学や医療などを批判する側も「科学」を自分で定義して、そこからの演繹で議論を進める例が多いこと。そのときたいてい俺様「科学」の定義は上記(1)のところを焦点にあてていて、そこから(3)を批判するなどのことをしているから。別にニセ科学、ニセ医療に限定することなく、われわれが科学を批判・考慮するとき、どこを問題にしているのかあいまいになることがあるから、注意しておくようにしよう。