2015/12/14 アラン・バイエルヘン「ヒトラー政権と科学者たち」(岩波現代選書)-1 の続き
ドイツの物理学者が国家社会主義に対してとった態度には3つのパターンがある。亡命した者、アーリア的物理学の政治運動を行ったもの、国内にとどまって研究活動を継続したもの。クラオタからすると、これはクラシック音楽家にも共通してみられることで、ドイツから亡命したワルターやクレンペラー、政権に迎合したクラウスやシュトラウス、国内にとどまったフルトヴェングラーという具合で、それぞれの対応がぴったりあてはまる。
亡命者の多くはユダヤ人であるが、公務員法などに抵触しなくとも亡命を選択した科学者もいた。シュレディンガーなど。高名な人たちはすぐに国外(多くはアングロサクソン系の国家)でポストを得た。これらのドイツ亡命科学者がアメリカ大統領に進言してマンハッタン計画が開始されたように、彼らはドイツに敵対することになる。無名の若手もまた同様で、ポストを得たものは戦後の研究開発に大いに貢献した。
それはドイツ国内の研究レベルの低下を意味する。亡命者は科学者の18%、物理学者の25%に及ぶ。大学や研究所の中核研究者を占めていた人が亡命したために、数年間ポストが埋まらなかった。そのうえ彼らの受け持った講義が停止されたために学生のレベルが下がることになる。それを危惧したのは、産業界であったが、彼らの提案は党や科学者組織には受け入れられなかった。ナチスは技術が好きで新兵器の開発には熱心でも、科学研究には冷淡だった。1933年から40年までの空白は20年代のドイツ物理学の優位(アインシュタインの相対性理論にハイゼンベルクの量子力学はドイツで発表)を喪失することになる。そのうえ、ワイマール政権からナチス政権まで、科学研究投資が乏しかったために、実験設備がなかった。そのために原子爆弾開発は失敗し、連合軍に拘留された開発者は広島への原爆投下に衝撃を受ける。
著者は、このような専門的職業研究家がナチスの台頭になぜ抵抗しなかったのかと問う。著者の考えは、多くの科学者は国家社会主義に積極的支持を否定しただけであった。反ナチ・親ナチを表明するものはごく少数(以下のアーリア的物理学を支持する物理学者は全体の5%であったという)。彼らは、たんに研究の独立性を要求したにすぎない。ドイツでは大学の自治は中世に遡るくらいの歴史があって、その信念は強固だった。それを侵す権力に対して科学者集団は、政治的な勇者になる道を知らず、政治的な熟練も欠如していた。まあ、カウンターの方法も組織化の方法もなくて、個々人がばらばらに動いていたということだろう。ナチスへの抵抗については、ナチスの暴力性が際立っていたとか、当時の主要な反対勢力だった共産党が社会民主主義者を優先的な敵とみなして民族主義者への抵抗が組織できなかったとか、いろいろ言われることがある。でも、抵抗の根拠を個人の自発性に求めていき、「おまえはなぜ決起しないのか」と詰めるようなやり方は好ましくない。これはヘタレである自分への戒めもこめて。2010年以降のヘイトスピーチや憲法改正の動きに自分が後手後手になっているのは、路上で行動する決意を示すのが困難だったから。だれかの旗振りがあり、泣いている人たちの声をきいてようやく重い腰をあげたのだが、そこには付和雷同の気分もあるはず。自分を含めて民主主義を実行する訓練というのはとても重要。小学校の学級会だけでは不足している。その一方で、他人の政治運動に冷笑的になりやすいという感情も問題になるだろう。
そして、ナチスの体験とマンハッタン計画は、科学が政治的に中立という信念が虚構であることを暴露した。これは科学研究の費用がどこから提供されているか、成果をだれが受け取るか、科学者はどのような組織に所属し、給与がどこから払われているかを考えれば明白だ。巨大化した施設と大多数の研究者が関与し中期的なプロジェクトで進む現代科学は、政治的に中立であることはできない(ありていにいえば、現状肯定の保守的な立場にいる。それはナチスの時代でも一緒)。科学の政治性をいうとき、多くは科学の知見や言明で政治的中立を考えてしまうのだが、科学者集団や国家の科学政策も科学であることに注意しないといけない。
2015/12/16 アラン・バイエルヘン「ヒトラー政権と科学者たち」(岩波現代選書)-3