odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

ウィリアム・マッギヴァーン「悪徳警官」(創元推理文庫) 悪に加担したことを反省するなら、正義を実行して悪を排除せよ。

 主人公は警官。長年、市を牛耳るギャングと関係を持ち、彼らから利権を得ていた。しかし、彼の弟がギャングの犯罪の現場に居合わせ、告発する。ギャングは主人公を通じて、弟を工作しようとするが、正義漢である弟は撤回しない。そのため弟は殺される。怒りと復讐心に燃える主人公は、ギャングに対して報復を決意する。残された時間はあまりに少ないが...という話。
 前作「ビッグ・ヒート」(創元推理文庫)のように、プロットやキャラクターには問題が多い。主人公の改心から決着がつくまでにわずか一日しかかからない。主人公に近づく女性は、事件の鍵を握っていたり、ギャングの弱みを知っていたりする。主人公の協力者もまた正義漢で、しかも圧倒的な力を持っていたり、ギャングの組織はとても小さく、しかも間抜けな計画しか立てられなかったりする、など。これらは現代の小説からすると、致命的な欠陥になる。1980年代になって以降、急速にマッギヴァーンが紹介されなくなったのは、彼の正義の考えが現実の「正義」と合わなくなってきたことと、彼の小説の技術が弱いことにあるだろう。
 にもかかわらず、この小説から切実なところがあったのは、彼の改心に当たることで、主人公の悪徳警官はギャングという悪の組織にかかわっていたことを後悔して、彼らをつぶすことを決意する。このときに、主人公に「正義」を行うという道徳が生まれたのだが、その道徳を実行することは、経済的なあるいは社会的な状況からすると彼に利益をもたらさない。むしろ、職を失い、その町を出なければならなくなることである。そのように正義を実行することは、道徳的には正しいとされるが、彼自身には不幸をもたらすことである。このような立場に立つことはわれわれの生活においてもあるはずだ。失職することを覚悟して、自分の所属する会社の不正を告発することができるか。負傷するかもしれない状況において、隣人を救援することができるか。しかし、多くの場合、自分を不幸にすることを理解したうえで、正義を実行することは難しい。そしてそのような状況のときに、このように行為するという正しい解はないし、命令するものもいない。それが本質的な「自由」であると思うのだ。このような「自由」は多くの人にとっては、あまりに重すぎ、自由であることは困難だ。
 この主人公は、自分が不幸になることを良しとして、正義を実行する。そのような決意性に私は心打たれた。そして、上記のような自由を自分が担えることが可能かと、自問する。
 この小説では、「正義」を実行しなさいという命令を告げる人として、牧師が現れる。このような正義の命令者として牧師が登場することは、とくにアメリカの小説に多いはずだ(とりあえずロバート・マキャモン「遥か南へ」(文春文庫)、スティーブン・キング呪われた町」(集英社文庫)をあげておく)。牧師すなわちキリスト教は、不幸になることを覚悟したうえで正義を行おうという人を支持し、支援するものとして働くのだ。そのような働きを軍政下の韓国や、労働組合「連帯」を支援したポーランドカソリック教会などにみることができる。この小説にあらわれる牧師は、このような決意をして不幸な状態にある「弱い人」を支持する働きを象徴するものだ。しかし、我の強い主人公は牧師の忠告を一蹴してしまうのだが。