odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

宮下奈都「羊と鋼の森」(文春文庫) 本書が終わったところから主人公の冒険や苦労の克服が始まるはずなのに中断してしまった教養小説。

 日本文学はいつからモラトリアム時代の青少年を主人公にするようになったのだろう。この頃の傾向か?(あ、「浮雲」や「三四郎」のころからそうか。)
 「僕」は山里くらし。中学生の時にピアノ調律の仕事を見学する機会があった。調律の仕事がしたいという希望を持ち、弟子入りを志願するが、まず学校に行けと諭される。卒業後、その調律師のいる企業に就職できて、3人の先輩調律師のカバン持ちをし、会社のピアノで練習。二年もやっているうちにお客さんもつき、仕事にはりがでてくる。とくに、ピアノ好きの双子の高校生。彼女らのピアノの関わりを見聞きしし、プロピアニストになるという決意を聞く。先輩の結婚式の余興でその高校生が演奏することになり、「僕」は調律を担当する。
 無垢で無知で素直で、人付き合いのよくない内向的な男の子が仕事を見つけ、先輩にも恵まれ、自立に至る。ただそれだけ。途中に事件は起きないし、「僕」が深刻な危機に会うこともないし、他人の援助が差し出されるわけではないし、「僕」にも改心や転換は訪れないし、仕事か恋愛かで悩むことはない。およそ19世紀的な基準からすると「小説」とはいいがたい。なるほど、仕事においてかつての親方ー徒弟関係はなくなり、見て覚えろ式の無責任な教育もやらないようになったし、先輩が後輩や新人に暴力をふるうこともなくなったし。日本の企業の環境は良くなった。そうなると、「小説」にふさわしい場所ではなくなったということか。
 つまらなさのおおきいところは、「僕」のキャラクター。彼は不満を持たないし、他人との関係に鈍感なのにナイーブ。彼の観察範囲はとてもせまくて、半径100mもない。社会の問題や変化に関心を持たない。万事受け身。でも同じ仕事を繰り返すことで自分の居場所ができ、そのことに安心する。そういうのが21世紀前半の日本の若者のありかたなのかしら。だからこの小説の「僕」の体験からわかるのは、自分の価値を認めてもらえるような熟達した職人になれ、ということだけ。なめらかで繊細な描写は社会からの抑圧や軋轢を隠してしまい、このイノセントな状態は、不安と希望を持てない若者にはパラダイスのように見えるのかもしれない。
(俺からすると、本書は長い小説の序章にあたり、本書が終わったところから主人公の冒険や苦労の克服が始まるはずなのだ。ロマン・ロランジャン・クリストフ」、トーマス・マン「詐欺師フェリークス・クルルの告白」みたいに。でも、序章部分で終わりになってしまうのは、この職業にキャリアアップの道筋がみえないことにあるとみた。このままでは、営業エリア内を循環するルーティンな仕事につくことになり、人口減少は受注の減少になって給与アップの可能性が乏しい。そうすると冒険や苦労の克服をするためには、一度会社や地域の外に出ないといけない。そういう家族やコミュニティ脱出を本書の主人公はやらないだろうし、でたところで21世紀の日本に「成功の機会」「可能性」があるか、あるとすればどういう状況においてかというとどうも心もとない。だれかの天才ピアニストがコンクールに出場するのについて行って、おんぼろピアノから輝かしい響きをひきだす、というストーリーくらいか。すでにある話だし、本書でその通りの成功を収めてしまっているし、ドキュメンタリーもあったりする。もう教養小説は成立できなくなったのかなあ。)
 俺はすでに会社から卒業し、生産活動から離れつつあるので、21世紀の高校生や20代前半の若者が持つような危機意識を共有していないからこういう感想になるのだろう。でも、これではつまらない。大江健三郎「われらの時代」村上龍コインロッカー・ベイビーズ」のようなひりひりするような感覚の悪漢小説をよみたい。これらの主人公も半径100mくらいしかみえないのだが、代わりに書き手が社会や国家を鳥瞰する視点で批判や描写をしている。これが21世紀の作家との大きな違い。

 

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<参考エントリー>

日本人調律師が世界的名声を得るまで。

odd-hatch.hatenablog.jp