odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

レイ・ブラッドベリ「ブラッドベリは歌う」(サンリオSF文庫)-1「キリマンジャロ・マシーン」

 原題は「I Sing The Body Electriv!」。初出は1980年代初め。サンリオ文庫は520ページもあるぶっとい文庫で、ハヤカワ文庫で再販されたときは「キリマンジャロ・マシーン」と「歌おう、感電するほどの喜びを!」の2冊に分けられた模様。ハヤカワ文庫版はもっていないので確認できない。当時の最新刊というふれこみだが、個々の短編は1948から1968年にかけて書かれた。

 まずは「キリマンジャロ・マシーン」収録分から。

キリマンジャロ機 ・・・ 奇妙な青年が「パパ」の墓を探しにやってきた。みんなの代表で、車にはタイムマシンを積んでいるという。1961年7月2日のすぐ後に書かれたのだろうな。パパは土地の名前と一緒に記憶される。
お屋敷、猛火に包まれなば ・・・ アイルランドの農民一揆の夜、村人たちはご当主様の家を燃やす計画をたてた。ひとしれず忍び込むと、当主は起きていて、家が燃やされるのは構わないが、国宝級の有名画家の絵画は別にしておいてくれという。しぶしぶと持ち出した農民たち。伝統芸術、ファインアートの力はすごいよね、でもエジプトでは博物館が略奪されて、人類の宝が散逸してしまったようだ。

明日の子供 ・・・ 出産補助の機械の故障で生まれた子供は三次元を折りたたんだ別次元に生まれてしまった。三次元の父母からはピラミッドの形に見える。さて、この子供をどうするか。育てることを決意した父母に訪れる危機、そして医師たちの意外な解決策。大江健三郎「個人的な体験」、ステープルドン「オッド・ジョン」あたりと比較。明日の子供は希望だが、今日の子供は差別の対象になりかねない。美しいけど、腹立たしい。

女ども ・・・ 海の底でなにかの<母性>が目覚め、浜にいる男を誘う。男の妻は、<母性>のたくらみに機智で対抗しようと、男を海にはいらせまいとする。雨が降ってきた。さかさまになった「みずうみ@十月はたそがれの国」。

霊感チキン・モーテル ・・・ 1932年の夏、不況で失業した一家が西にドライブする。お先真っ暗ななか、家族は悪口雑言をいいあいながら旅する。あるモーテルで鶏卵をみせてもらった。そこには「安らぐべし、繁栄は近し」と書いてある。一万羽の一羽がこの奇跡を演じた。その意味は分からないが、家族の関係は変わる。失業を乗り越える知恵を彼らは己の力で引き出す。

ゲティスバーグの風下で ・・・ リンカーンが殺された、と劇場で騒ぎが起きる。リンカーン機械を作ったベイズは現場検証に行き、ブースという暗殺犯を見つける。そこからねじれだして・・・うーん、おちがわからん。とりあえずリンカーンのアンドロイドはPKD「あなたを合成します」にもあったな。この若く死んだ大統領は人気があるのだねえ。

吾らは川辺に集うらん ・・・ 新しくハイウェイが開通し、もはや旧道は誰も来なくなる。そこに30年も生活していた人々が迎える最後の夜。バーで立ち話をし、夜になってもポーチで隣人と小声でしゃべり・・・、むかえた朝。「たんぽぽのお酒」の30年後、というとすこしもの悲しすぎるかな。

冷たい風、暖かな風 ・・・ 冬のダブリンにやせっぽちの老人デヴィッド・スネル・オークニーとチビの青年6人がきて、突然宿を借りたいという。荷物を持たない彼らは、チェックインするとすぐさま外に出て、公園や桟橋やらをさかんにみてまわる。すると、木が葉をつけ、暖かい風が吹いてくる。これは春の訪れか。さかさまの「マウンドシュラウド@ハロウィーンがやって来ただね」。世界を再生させる春の神話。ただ、こういうノンセンスな童話はクノーとかカミのようなフランス作家のほうがうまい。

交換台経由の夜間長距離電話 ・・・ 世界最終戦争の始まった地球帰還のロケットに乗りそこなったバートン。以来60年、待った。そこに電話がかかる。それは60年前のバートンが遊びで入れた録音。それが作動してバートンを呼び出した。若い悪戯な声が老いたバートンを挑発する。1985年筑波科技博のときに、2000年に配達する自分あての年賀状を受け付けるというサービスがあった。あいにく自分は書いたこともその文面も覚えていたので、受け取ったときにはなんともいらだたしかったが、そういう気分を思い出した。

新しいものに取り憑いた ・・・ 古い館はそれまで富豪のふしだらなパーティやらんちきをうけ入れていた。その悪徳がたまりまくったとき、館は自らを炎に包ませた。最後の当主ノーラは懸命に再建したが、新しい館は不道徳が身に沁みついた中年女を受け入れない。なので、私は今日を最後に館を出ていく。という物語は、ノーラのつくり話ではないと断言できるだろうか。まあ、語り手とノーラが手を握り合うとき、それはそれで再生の物語のはじまりだよね。


 個々の短編がいつ書かれたかがわからない。短編集の発表順とおりにかかれたということにして、1980年前半の最新短編集だから最新短編が収録されているという前提で感想をいくつか。そうすると誤りが出るから、初出情報は必須なのだがねえ。
 収録されている短編からは、いわゆるSF的な設定やガジェットが消えていった。あれほどロケット、火星、異星、ロボット、タイムマシンなどに愛着をもっていたのに。「交換台経由の夜間長距離電話」の火星、「明日の子供」のミュータントくらいが例外。そのかわりに、実在の町、年が明記され、そこにすこしばかりの奇妙なできごとが起こるという書き方になった。
 単純化すると、作家は「連れ出すもの」から「連れ戻すもの」に変わったわけだ。あのめくらめく宇宙や火星や遠い天体や未来でわくわくすることを発見する楽しみのかわりに、現実のどうでもよいごくありふれたことの素晴らしさを再確認させるものになったわけだ。
 というものの、作家の連れ戻す現実は、読者や作家の所属する物理現実とは少し違う。それはすこしばかり前にあった場所、先人のフィクショナルな幻想や想像でつくりだされたもの。読者や作者の物理現実とは一致しないで、すこしばかりノスタルジック。彼が繰り返し振り返る1928年のイリノイ州の農村や、本がたくさん積まれて読まれるのを待っている図書館だね。そこは、作家の想像力を共有することのできる読者にはとてもいごこちがよい。そしてそこには人々の温かいコミュニケーションがある。残酷ではないのだよね。