odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

レイ・ブラッドベリ「ブラッドベリは歌う」(サンリオSF文庫)-2「歌おう、感電するほどの喜びを!」

 続けて「歌おう、感電するほどの喜びを!」収録分から。

吾は歌う、この身の充電するまで! ・・・ 母を亡くしたあと、子供たちはある広告を見つける。「電子お祖母ちゃん」! 13歳のトムと11歳のティモシーはすぐにお祖母さんになつくが、末っ子のアガサはどうしてもお祖母さんといっしょにいられない。不意に飛び出してしまう。ブラッドベリはお祖母さんの描き方が上手(「たんぽぽのお酒」のお祖母さんがみごと)。この電気お祖母さんも作家の理想なのだろうな。でも、三人の子供が年老いて、お祖母さんにもう一度会いたがるというのはどうだろう。そういう人生のまとまりはなんだなあ、美しいと思うけど、自分にはあわない。

墓移しの日 ・・・ ハイウェイが通るので墓を移転することになった。すると80歳の婆さんが60年前に死んだフィアンセの棺を自分の家に運ぶように頼む。棺の中の23歳の青年は昔のままだった。そのあとにおきた不思議なできごと。まあ、昔の恋人の記憶はそのようなもので、自分と同じようには年を取らずにいつまでも若いまま。再び会うことを期待するのは幻滅ではあるのだよ、でもそれは自己を変革するものでもあるけどね。そんな自己変革は経験しないほうがよいのさ。

ニックルバイの友達なら誰でもわたしの友達だ ・・・ タイトルはディケンズの「ニコラス・クリスビー」を借りている。ある夏の日、その顎鬚をはやした男はスーツケースをもって町の下宿を借りた。彼はチャールズ・ディケンズという。彼を信頼する少年はピップというあだ名を頂戴し、ディケンズの口述する「二都物語」を筆記する。しかし現実的な床屋は少年を取られたことに腹を立て、ディナーの席で彼を侮辱する。そこから立ち直るでディケンズと少年の関係が美しい。そして図書館で詩を書くエミリーを励ます。こうしてすばらしい夏が過ぎる。えーと、フィクショナルな自伝であり、「華氏四五一度」の前史だ。

強力君 ・・・ 18歳の少年がハローウィーンパーティを企画して20人誘ったが、8人しかこない。かくし芸やゲームをしても誰も乗ってこない。そしてカップルは30分もしないで海岸に姿を消す。18歳の少年は体を鍛えることにだけ興味をもっている。性や愛に奥手なのが、同世代からはじかれてしまう理由なのだろうな。スポーツに関しては、彼はモテモテなのに。

ロールシャッハ・シャツの男 ・・・ カリフォルニアのバスに愉快な老人が乗ってきた。シャツに無数のイラストがあって、乗客になんに見えるか聞いては楽しんでいる。それは失踪した精神分析の大家ブロコウ博士だった。博士が行方をくらましたわけは。この愉快な老人、深刻な自己否定の末に大きな肯定を得た幸福な人、は作家のセルフ・イメージなのではないかしら。

ヘンリー九世 ・・・ 北の氷はイギリスを覆い、皆が移住してしまった。最後に残るのはハリーという老人。彼はイギリスの歴史と人物の幻想といっしょに、諸島を征服しようとする幻の敵と戦おうとする。武器はシェイクスピアディケンズ、ジョンソン、ホープ、ミルトンらの書。

失われた火星の都 ・・・ 地球ですっかり退屈した金持ちたちが火星の失われた都を探検する。見つかった都は、彼らの欲望を満たす魔法のような素晴らしい仕掛けがあった。皆が、それぞれの欲望を満たすために都のなかを満喫する。まあ、欲望を満たそうとすることは、かぎりない反復に陥るか、自己破壊にいたるか、ということか。「ホテル・カリフォルニア」のように入ることはできても出ることはできない都が失われた火星の都。でも、この都は21世紀の現代の都市にとてもよく似ている。ということは、われわれもかぎりない反復(それは引きこもりに至る)か、自己破壊に至るのか。「百万年ピクニック@火星年代記」とはまるで異なる火星の姿。

クリスティネ・アポロ ・・・ クリスマスとキリストとアポロを賛美する詩篇。「創造の第八日と第九日の約束をことほぐカンタータ」という副題だが、曲をつけると最低30分、18世紀風だと2時間の大作になる。いまどき誰が書くかなあ/聞くかなあ。


 かつて彼の想像力の翼を借りて、宇宙や異星や未来に旅したものにとっては、この短編集で作家が用意した「現実」の場所はすこし物足りないなあ。読者の物理現実の延長にあるから、センス・オブ・ワンダーの楽しみを味わうわけにはいかないというのもあるけど。
 自分が困惑するのは、彼の「現実」がどうも自分の現実と一致するところが少ないあたりかな。自分の年齢でも1928年は記憶するはずもなく、暖かい人々のコミュニケーションも経験していないしね(というか個人的にはそういうウェットな関係はどうにも受け入れがたいので、小説でも現実でもうっとうしいのだよ)。「吾は歌う、この身の充電するまで!」の電気お祖母ちゃんを迎えに行きたいと思うには、自分の過去の記憶が邪魔するし。
 もう一つの決定的なのは、彼は現実を「すべてよし」、あるものをあるがままに残せという保守的な考えの持ち主だから。そういう保守というかノスタルジーは本や図書館や映画にむかうとき、自分はもろ手をあげて歓迎するが、ハイウェイや氷の到来で壊れていくコミュニティを保守するというのがそのままでは受け入れにくいのだ。社会の変化に人々も変わっていく、そういう変化のすえに至るところを見せるのが小説の想像力の力のひとつだろうけど、そういう契機にはとぼしい。「失われた火星の都」の火星の都市は廃墟だし、ディストピアだし、地球人の退廃は唾棄するものだし。こういう認識は、「百万年ピクニック@火星年代記」にあった期待や希望とはずいぶん遠いところにある。作家もずいぶん変わったのだねえ、と嘆息を漏らすことになった。
 まあ、図書館や博物館に閉じこもり、引きこもるのも人によってはありなのだろう(「明日の子供」の両親みたいに)が、それほどの財力をもたず、コミュニティから切り離されている自分からすると、この小説はすこしばかり苦かった。