odd_hatchの読書ノート

エントリーは3200を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2024/11/5

フョードル・ドストエフスキー「賭博者」(河出書房) 賭博に感じる恐怖とふるえ、全生命が凝縮している一瞬、忘我の法悦。自己破壊・自己破滅を望むマゾヒスティックな気分。

 「罪と罰」連載中にどうしても長編を書かねばならなくなり、にっちもさっちもいかないので、速記ができる女性を雇い(のちの妻)、27日間で口述筆記した。すでに構想ができていたのと、舞台がなじみの賭博場であったので取材が必要なかったので、驚異的なスピードで完成したのだろう。

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 25歳の「わたし」はドイツのルーレテンベルク(架空の町)でロシア人の「将軍」の家庭教師をしていた。暇なときには賭博場にいりびたっている。「わたし」は将軍の木を引いているフランス人の金持ちマドモワゼル・ブランシュに色目を引きながら、ロシア人のポリーナとの腐れ縁を切れない。ポリーナも文無しであるが(義父の将軍が彼女の財産を勝手に使っている)、なぜか「わたし」には高飛車である。「わたし」はポリーナの奴隷であると自認し、一方で殺意を抑えることができない。この卑屈とプライドの共存するマゾヒズム傾向の行動性向は新しい。ほかにもこの温泉町兼賭博町の人間関係がだらだらと書き連ねている。そこに将軍のお祖母さんがやってくる。このがみがみやでいじわるなメイトリアートは賭博を馬鹿にしながら、周囲の人を馬鹿にしながらルーレット場に行き「わたし」を助手にバクチに手を出す。ビギナーズラックで1万数千フランの勝ちになったが、翌日からはカモにされ数時間で9万フラン(現在価値にするとどのくらいなのだろう。10億円くらいすったのか)の負けになる。もうバクチはやらないといった車椅子のお祖母さんが周囲の忠告を無視して、賭博場に行くさまはすごみすら感じるほどのすさまじさ。ようやくモスクワに帰るころには、お祖母さんの遺産をあてにしていた将軍他全員が文無しになっているのがわかる。
 ここまでは「スチェパンチコヴォ村とその住人」のようなシチュエーションコメディ。「わたし」とポリーナの痴話げんかから始まり、温泉町にいる誰彼の確執がからんでくる。関係の複雑さ、思惑の多彩さで、鍋のなかが煮立ってきたところに強烈なキャラクターが登場し、さらに電位が上がり狂騒の度が増していく。このお祖母さんがビギナーズラックで大勝するところが最初のピーク、そのあとに大敗するさまがクライマックス。人々が狭いところに集まり、ドタバタが周囲に波及するさまをしつこく書いていく筆はみごと。お祖母さんが失意のうちに退場すると、コメディの余韻が消える。
 そのあと、もうひとつのテーマだった「わたし」と複数の女性とのからみになる。お祖母さんが大敗したために遺産をあてにしていた将軍はにっちもさっちもいかない。将軍が使い込んだ金をポリーナが返済しなければならない。「わたし」はわずかな金を手にして賭博場に突進。それから二日間ほど一睡もしないでルーレットに賭ける。そこに感じる恐怖とふるえ、全生命が凝縮している一瞬、忘我の法悦。実存の姿がそこに出来したかのような集中。この描写はみごと。ギャンブルに興味のないおれは、ここの記述に恐怖を覚える。リスクをとること事態に快感を感じることはできない「堅実」型の生活だからな(とはいえ、いろいろ失敗しているので、そうとも言えないのだけど)。
笠井潔「熾天使の夏」も賭けに実存をみている。こちらでは賭けに負けること、自分を破滅に追い込むことへの快感が主題になる。)
 「わたし」は借金の返済に十分な金を作るが、ポリーナは受け取り拒否(札束を「わたし」に投げつけるという激しい拒絶)。呆然とする「わたし」に将軍のフィアンセは2か月で全部使って見せるといい、パリに行き、その通りの期間が過ぎて蕩尽が終えた後、「わたし」は捨てられる。この二人の女性キャラクターは強烈な印象を残す。ドスト氏の小説(ないし19世紀の小説)では、女性は聖母マリアのような純潔・無垢で、他者奉仕の自己犠牲で、自己主張をすることは少ないのだが(ソーニャ@罪と罰が典型)、この二人は主張する女性。自分で人生を設計して演出し主演になる人。あいにくこの小説の中では、無分別で軽はずみな行動をし、男性を痛めつけることに執心する奇矯さがめだつ(リーザ@カラマーゾフの兄弟の前駆か)。「わたし」による男性目線が彼女らをそのように性格付けてしまったのだろう。
 たいていは「わたし」の自虐的な性向、自己破壊・自己破滅を望むマゾヒスティックな気分に注目するだろう(「ぼく」@地下生活者の手記、ミーチャ@カラマーゾフの兄弟をみるよう)が、おれはこの女性の方が興味深かった。後期長編のような巨大さはないし、深淵な人生と哲学のテーマはないが、ドスト氏の技術と新しい女性像を楽しむ掌編。


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 執筆直前の1863年、ロシアはポーランドの反乱を武力で鎮圧して、ポーランド自治権を奪った。そのため、西ヨーロッパではロシアは不人気で悪者。ドイツの温泉町で「わたし」ほかのロシア人が嫌われるのはそのため。ルーレットにのめりこむお祖母さんのまわりをポーランド人が助手になって、お祖母さんの金を抜き取ったり毟ったりするような悪党に書かれているのも、ドスト氏がロシア人のせいか。新潮文庫のカバー解説で「ロシア人に特有な病的性格を浮彫りにする」とあるけど、ごく少数の事例を集団に広げるのは拡張しすぎ。

 

 ショスタコーヴィチプロコフィエフがオペラにした。