1962年刊行の作者の第1短編集。
The Voices Of Time 時の声 (1962) ・・・ ストーリーを要約するのではなく断片を勝手に並べるようにして。生物学者がプールの底に幾何学模様を延々と描いている。昏睡状態になった患者が終末医療施設に数千人も収容されている。ロボトミーで眠れなくなった患者が、9000京もある数字をカードに書いている、数字は書くごとに減っていく。太陽の放射線量が増加している。生物は重金属を取り込み、鎧をまとうようになった。人類の睡眠時間がだんだん伸びている。数光年先からカウントダウンの数字が宇宙に向けて送信されている。実験動物がすべて死んでいる、まるで自殺したかのように。宇宙は終末を迎えようとしている。静かな、あっけない、世界の終わり。稀代の傑作。1977-78年にFM東京で放送していた「サントリー音の本棚」というラジオドラマ番組(ナレーションは小池朝雄)があり、過去の傑作10作品を再放送したとき、この小説は上位に入っていた。1位はクラーク「2001年宇宙の旅」。
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The Sound-Sweep 音響清掃 (1960) ・・・ その世界では音は物質に張り付いて過去の音響を機械で取り除けること、超音波音楽が発明されて沈黙のうちに音楽を聴くことができること、が前提になっている。さて、超音波音楽のために仕事のなくなったプリマドンナ、マダム・ジョコンダ(ポンキエッリのオペラから)。彼女は専門の音響清掃員を雇い、彼女への賞賛・誹謗などの音を消している。清掃員は唖。そのために誰もが自分の秘密をしゃべる。彼の住むスラムで、音の廃墟から様々な音を吸い出した時、ジョコンダの妄想が止まらなくなる。再び、オペラハウスにジョコンダがたったとき、起きたこと。清掃員は声を回復するのだが、それは解放ではなくて、新たな桎梏と幻滅になるというのが残酷。書かれた時代はソプラノのオペラ歌手がポピュラーな人気を獲得した最後の時代(マリア・カラスとかレナータ・テバルディとか)。参考ジェームズ・ヤッフェ「ママ、アリアを唄う@ママは何でも知っている」1966年
The Overloaded Man 重荷を背負いすぎた男 (1961) ・・・ 同僚たちとのコミュニケーションがうまくいかなくなった男。勝手に辞職して暇な時間を対象の認識方法を変えることに熱中する。その結果、客体を意識の外に置くことによって、客体を消すことができるようになる。そこまでいくと、食事はいらなくなり、妻は不要になり、最終的には肉体からも解放されることを願う。この欲望は、自閉症スペクトラムを持っている人にはすごくよくわかるのだよね。客体の存在よりも観念のほうが実在感があって、客体をどんどん無視したくなるようなところ。そういう症状を見出したのが1990年代だから、バラードの方がずっと前。
Zone Of Torror 恐怖地帯 (1960) ・・・ 脳神経をダイレクトに操作する機械を製作中の技術者が神経の衰弱で、山荘で休暇をとることにする。彼が幻影をみるというので、精神分析医がついてきていた。興奮剤や鎮静剤を交互に飲んだ不安定な神経でしだいに幻影が姿を現す(ん?)機会が増えてきた。幻影はついに精神分析医にも見えるようになる。その幻影は技術者自身。護身のために持っていた拳銃が発射される。モダンホラーになり損ねたいびつな作。深読みができるとすると、幻影は開発中の脳刺激機の効果であり、精神分析医の本来の任務は技術者を最初の被験者とする実験の観察であった。
Manhole 69 マンホール69 (1957) ・・・ 脳に手術を行って睡眠ができないようにする実験を行った。そのことで人類の能力がさらに増すと考えたのだった。3週間たち、被験者たちはしだいにおかしな行動をとるようになる。ここでは脳がさまざまな感覚器からの情報処理機械と考えられている。コリン・ウィルソン「賢者の石」みたいに、情報処理速度を上げる仕組みも脳に仕込んでいれば、小説みたいなことにはならなかったのかも。
The Waiting Grounds 待ち受ける場所 (1959) ・・・ 惑星ムラークは砂漠と岩石の星。鉱石を採取するしかない星に派遣された技術員は15年も一人暮らしで退屈することはなかった。引き継いだ技術員はその謎を解くために惑星を探索する。そしてさまざまな文字の書かれたモノリスを発見した。人類以外の知的生命体とのコンタクトであるが、相手はすでに去ってしまったか死に絶えている。そういうシチュエーションは、クラーク「2001年宇宙の旅」、レム「ソラリス」、ブラッドベリ「火星年代記」、大江健三郎「治療塔」などさまざまあるが、バラードの違うのは、超越的存在やコミュニケーション不可能な他者には興味を持たないこと。ここでは、モノリスを発見した技術者が自分の内宇宙を探索することで、外宇宙とコンタクトすることができ、大きな謎を解いてしまう。なるほどインナースペースは広大ではあるが、そこには神秘はないということになる。
Deep End 深淵 (1961) ・・・ 惑星開発のために地球の水を運搬した。その結果、地球の水は枯渇し、生命は生存できなくなる。最後に残る数人は、塩辛い水にツノザメを見つけ、地球の再生を夢想する。しかし…。
ジョン・ガッテニョ「SF小説」(文庫クセジュ)を読むと、SFは方法とテーマの小説だという。それを前提にすると、たとえば作者や期待される読者の物理現実社会に「もし○○が××だったら」を外挿して、それでどうなるか、それにどう反応するかなどを考える。そういう物理現実にはありえない事態(宇宙人が来訪した、タイムトラベルが実現した、人口が現在の数百倍になった、恐竜が復活したなど)が起きて、それにどうやって適応しようか、できるのか、そうすることが「善い」ことなのかなどを考える。ふつうのSFはそういうものだ。
バラードがすこし違うのは、外挿される事態の異常さもさることながら、それを認識する主体の側が認識の正しさを懐疑する。音が物質化しているとか時間が老化していくとか、そういうことが単純に対象や客体に起きているのかどうかと疑うのではなくて、まず主体となる<私>のほうに誤りがあるのではないかと問う。何しろバラードの小説では、対象や客体が作家や読者の物理現実と離れた事態になっていても、そこに住む人たちは適応を終えているためか、疑義をさしはさむことをしない。疑うのは<私>か、オルグして組織化した少数の人たちの方。おおかたのSFでは異常な事態が起きたら、「解決」することを目指すのだが、バラードの小説では事態から脱出することが目的になってくる。脱出が不可能であるときは、主体は<私>が私であることを疑うようになり(それが人口に膾炙する「内宇宙(インナースペース)」のことだ)、ときには精神崩壊、狂気に向かうことになる。そういうバラードの特質があらわなのが「重荷を背負いすぎた男」。世界はまったく変化していないのに、主人公の主体だけがSF的懐疑に囚われて、世界がSF的な異様で異質なものになっていく。それは「時の声」でも「音響清掃」でも同じ。世界が変わるよりも、主体が変化し、ときには崩壊していくのだね。
それを科学的な方法で記述するものだから、文体は緻密になり、正確さを求める。まあ扇情的なところが消えて、「文学」的になっていくのだ。だから、とはいえないのだが、バラードの小説はフィクションではあるものの、主体の心理は極めて明晰で知的。ある種の傾向を持つ読者(おれがそうなのだが)には、リアリズムそのものになる。おれにはバラードのSF小説は現実認識の正確な描写として読むことができる。
バラード(とPKD)では、こういう主体の変化や認識の懐疑で世界が変化したり崩壊したりする理由や原因は、精神分析的な「心」の問題(ときに向精神薬)であった。それが、バーチャルリアリティや人格モジュールなどのテクノロジーでも起きるという発見をしたのがサイバーパンクの連中。という図式を書けるかな。
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