odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

大江健三郎「懐かしい年への手紙」(講談社)-1

 1988年発表。
 この小説がいささか読みづらいのは、これまでの作家の仕事を順を追って知っていることを読者に期待しているから。作中にでた過去の作品には「奇妙な仕事」「死者の奢り」「セブンティーン」「政治少年死す」「空の怪物アグイー」「個人的な体験」「万延元年のフットボール」があり、タイトルは登場せぬとも内容が登場するのが「洪水はわが魂に及び」「ピンチランナー調書」「同時代ゲーム」「新しい人よ目ざめよ」とあるから。ここらへんの小説の内容を知っていないと「ギー兄さん」の批判や「僕」の半生は理解しにくい。あわせて、「同時代ゲーム」と「M/Tと森のフシギの物語」で語られた「村=国家=小宇宙」の神話=歴史を知っていることも必要。そのうえで、いくつかのエッセイなり政治的発言なり三面記事的な騒動などを想起できることをも期待している。そういう読者はどれだけいるものか。

 さて、「僕」は50歳を迎えて精神的な危機を迎えている。自閉的でナイーブで(そういうあだ名を高校生のときに持っていたとされる)、抑うつ傾向にあり精神的にまいりやすく、不眠から過度の飲酒癖をもっている。これを、この年齢の生理的な変化としてもよいし、子供たちが自立し自分を内省できる時間をもつことによる不安傾向としてもよいし、過去に選択して今に至る生の有り様を振り返り今とは異なる別の有り様を想起するという悲哀の感情を持ったと見てもよいし、そのような精神的な危機を抱えている。あいにく、彼の人格とか性格は、人との交わりを楽しむというふうではなく、何かのグループやコミュニティに帰属して安定を図るということができない。作家という仕事のせいか友人はごく限られていて(東京の友人たち、T氏とかY氏はでてこない)、助けや頼りはほとんど誰にも期待できない。ここらの境遇は、作家がこの作品を書いたときの年齢とほぼ同じになって読み直すときに、痛切だな。単純に更年期障害であるとかアルコール耽溺による内臓の弱まりなどでは理由のつかない悲しみというか、これまでの自分はいったいなんだったのか(いや何もなしていない)という苦渋とかを味わっているので。
 まあそういう状況にある作家が、自分の生活や半生、そして小説を書くことを問い直すことにする。それが小説の主題。小説を書くための理由探し、小説家として生きてきた自分のレーゾンデートル探しがこの小説で描かれる。彼の方法は、現実には存在しない「ギー兄さん」を仮構し、自分の人生のメンターであり批判者でありトリックスターである彼の口を借りて、自己批判を行うこと。まあ、「ギー兄さん」というのは、作家が過去選択してきたことと別の選択をした、ありえたかもしれない自分の分身であるわけだ(村に残り、森林組合の書記として村で生活し、余暇にはダンテの「神曲」とその研究書をよむアマチュア研究者として生きる)。このような批判的人格は、別にこの作だけの創意というわけではなく、これまでは弟(「芽むしり仔撃ち」「万延元年のフットボール」など)として、あるいは子供(「洪水はわが魂に及び」「ピンチランナー調書」「新しい人よ目ざめよ」)として、あるいは奇妙な闖入者(「日常生活の冒険」)として現れていたわけ。これまでの批判的人格は、作家の行い得ない行動をとり、作家を新たな環境にはいらせることによって、作家の自己変容をうながしてきた。ここで兄という年長者であり、かつ作家とほぼ同等な小説と外国語の読み取り能力を持つことで、批判はことばによって行われる。なので、過去の作品の引用がでてくるし、人生を観照する「神曲」の引用もでてくるわけだ。したがって、批判は作品にむかい、作家の行動には向かわない。作家の行動の批判は作家を取り巻く複数の女性が代替する。母であり妹であり妻であり、ギー兄さんの家に住むセイさんに娘のオセッチャン、女優のSに新劇女優の繁さん。まあ、作家は彼女らの母性に頼って、自己変容にはいたらぬようなのだが。
 面白いのは、このような想像上の批判的人格はたいてい悲劇的な死を迎える。上記で並べた小説で、いくつかの例外はあっても、たいていの場合、批判的人格者は小説のなかで死ぬ。それはのちの小説「宙返り」でもそうだった。まあ作家の心情を忖度すれば、このような批判的人格は作家の人格のある部分を拡大し、そこに理想や願望を投げかけたものなので、それがつねに在ることは作家にとって新たな危機になるということだろう。小説内で彼の存在を存分に描き、死に至らしめることで作家の内部の死と再生(この小説のひとつの主題で、「村=国家=小宇宙」サーガの主題である)を果たしている。なので、作家は現実で死ぬことはないし、筆をおることもないし、次の小説=人生を幻視できるのだろうな。
 そのような方法とは無縁で、死と再生もフィクショナルに想像するしかない読者からすると、作家の「死と再生」を経た上での自己回復を自分のものにするのはなかなかむずかしい。まあ読んでいるあいだは抜群に面白かったので、その記憶でもってまあいいかと思うのだけど。