odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

大江健三郎「核時代の想像力」(新潮社)

 「万年元年のフットボール」1967年を書き終えて、次の長編にとりかかるのが大変(次の長編「洪水は我が魂に及び」がでるのは1972年で間があいている)。そこで、紀伊国屋ホールで毎月1回の講演をすることで、小説を書くこと、想像力を使うこと、社会や現実にコミットすることなどを話す。その反応が、小説家としての自分を鍛えることになるだろうという見通しのもとに。

戦後において確認される明治 ・・・ 明治百年が言われている中で、中江兆民の恩寵的民権と恢復的民権を考えたい。この百年の強権は、、報道に曖昧さのおおいをかけたり、ニセの情報を与え、スピードにのっかって思考を停止するようなことをして、ひそかに目的を達成してきた。強権のあいまいな言葉に対し、正確な言葉による言質をとって対抗しよう。例えば沖縄。ここには核兵器が置かれ、憲法が通用しない。沖縄をスケープゴートにすることで、日本は非核三原則を実施でき、憲法と民主主義ができている。これではいけない。

文学とは何か(1) ・・・ 例えばドストエフスキーの小説があるのに、なぜ同時代の小説を書いたり読んだりするのか。それは同時代の人がどのようにものを見て、感じて、考えているかを具体的に情報を得たいからであるし、同時代の人々の生き方を具体的に知るためであるし、過去と同時代のつながりを考えることであるし、漠然とした対象を具体的にとらえ直すためであるし・・・、このように同時代とのつながり、「同時性」を獲得するためである。「万延元年のフットボール」はその試み。

アメリカ論 ・・・ アメリカ人にもいろいろいるが、人間の力を越えたものに対する恐怖や畏怖に敏感なひとがいる(メルヴィル「白鯨」のイシュマエルやエイハブ)。黒人の暴動もあって、一様性を求める人がおおいが多様性(diversity)こそ大切。あと、死滅する鯨の恐怖や畏怖を詩にしたアメリカ人と知り合ったことが語られる。のちの「ムーン・マン」や「洪水」「ピンチランナー調書」、「鯨の死滅する日」など10年ほど続く鯨のイメージの出所であるのだろう。

核時代への想像力 ・・・ 核戦争は世界の終滅であるが、それが一握りの巨大な権力によって決定されるという自由と民主主義に対する反動である。この権力は核戦争による未来の悲惨に向けた想像力を発揮することを妨げている。そのような倫理的にインポテンツな人々(@エンツェンスベルガー)による権力に負うするためには、核時代の悲惨に向けた想像力を民衆が用い、強い抵抗力を持つことが必要。

文学外とのコミュニケイション ・・・ 映画や演劇などの文学の外の芸術の想像力について。社会に向けて想像力が発揮される時、文学からの想像力と同質の力を持つ。アーサー・ペン監督「ボニーとクライド(俺たちに明日はない)」など。

文学とは何か(2) ・・・ 小説で何ごとかが描写される時、作家がひとつの言葉ごとに世界とどのようにかかわっているかを表現している。それを読むことは、作家から提示された新しい事物の世界に入り込むことであると同時に、読者は作家とは異なる人間であることを意識しながら提示された事物の世界に向かい合うことである。そのように同時代性を確認することに、小説の前後にある作家と読者が事物の世界に向かい合い、アンガージュマンする。うまく書けないでいて苦しんでいるというのは、「父よ、あなたはどこに行くのか」1968.10。この講演は同年7月。 

ヒロシマアメリカ、ヨーロッパ ・・・ ある文明がほかの文明を野蛮として破壊することがある(講演のころソ連によるチェコ侵入やベトナム戦争などが進行中)。文明は失敗しながら進むものであるというが、重要なのは破壊行為の被害者の声を反映すること。その点で、20世紀の野蛮であるヒロシマアウシュヴィッツベトナムの記録と記憶は重要。とりわけ、この国のひとは野蛮なことに対して、単純化して走り出すことがあるので注意(で失敗してしゅんとするが、時間がたつとまた繰り返す)。
(この講演の前にアメリカ・コロンビア大学にいって話をしてきたという。当時、コロンビア大学は学生紛争の真っ最中。ジェームズ・クネン「いちご白書」角川文庫や映画「いちご白書」に記録されたできごと。)

犯罪者の想像力 ・・・ 犯罪者を人間とみなさないことで安心しようとする(たいていの反応)が、彼らに想像力を働かせることによって、つかみえなかったこと・もと(社会のひずみなど)を確かめられ、他人と個人との関係に関する認識を深めることができる。たとえば軍隊兵士の自殺・逃亡・叛乱の記録を見ると、われわれの社会は軍隊のような囲いがあるわけではないが、閉じた社会に生きていることを認識できる。
(しまった、「万延元年のフットボール」「洪水はわが魂に及び」はその方向で読むべきだった。すっかり取りこぼしてしまった。)

行動者の想像力 ・・・ 行動者(とくに民衆の側の)も想像力をもとう、という主張。細部の方が面白くて、明治百年の政府行事では日韓併合日中戦争、沖縄、原爆のことが触れられない。明治以後15回の戦争があったが4回だけ白人と闘い、11回は周辺アジア人に向いていた、など。

想像力の死とその再生 ・・・ 文化的民衆的なイマジネーションは死と再生を繰り返してきた。この百年(1968年当時)で見ると、自由民権運動と敗戦直後が再生の生き生きした時代。それが現在では権力の抑圧にあってイマジネーションが枯れてきているようだ。想像力の死はことばが機能を失うことであり、端的には「問答無用」である。現在、民衆のイマジネーションが生き生きとしているのは沖縄(返還直前で、最初の主席選挙やゼネストがあったころ)。

想像力の世界とは何か ・・・ 社会のひずみや抑圧を押しつけている権力に対する民衆の側はイマジネーションを豊かにして対抗することが必要だよ、芸術家は現実に起きていることに懐疑する精神をもって広める役割があるのだよ(という歯切れの悪いまとめ。実践とイマジネーションを対比しているのだが、対比じゃなくて、どっちもやりましょうでしょうに)。


 社会や世界にコミットしようとするところで、作家の言葉があいまいになってしまうのはご愛敬。作家の本業が小説やレポを書いて読者に興味や関心を喚起することであればそれに集中すればよいし、なにより作家は活動を行っているので(広島、沖縄、韓国の問題に深くコミットしている)、そこに卑下することはない。当時の学生は警官や機動隊と肉体ごとぶつかる活動をしていたから、その「決意」に反論しえない場面はあったのだろうなあとも思う。
 そこはさておき、この講演集は大事。それまでは小さなエッセイも含めて、小説以外の全部の文章をまとめたエッセイ集(「厳粛な綱渡り」「持続する志」「鯨の死滅する日」)をつくってきたが、この後はテーマが重なり合う長めのエッセイや講演だけをまとめて本にするようになった。そのことで作家の考えや現在気にしていることが明確にできるから。その趣旨は成功していて、のちに書かれたエッセイよりも首尾一貫したものになっている。
 あと、このころから小説の方法に自覚的になって、見出したことをまとめようとしている。どのように書くか、どのように社会や人々を見ているかを表現するか、どのように社会や世界に開かれた想像力を有効に使うか、などが当時の関心。それまでサルトルバシュラールの想像力論に寄りかかっていたのをどうにか自分の言葉で説明しようと試みている。
 併せて、自作解説もある。これは作品理解に大いに参考になる。自分は今回(比較的)最近の作からデビュー作へと遡るように読み直しているのだが、作家が読み取ってほしいところをいろいろと見逃してしまった。とくに「みずからわが涙とぬぐいたまう日」「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」の短編と「洪水はわが魂に及び」。このようなエッセイと小説を一緒に読むことで、小説の多様性や象徴、構成の意味付けなどを読めるので、参考に(といって1980年からほぼ四半世紀品切れで入手難だった。2007年に再販されたのはなにより)。