odd_hatchの読書ノート

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大江健三郎「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」(新潮文庫) 「ここではない何処か」「ここより他の場所」に行きたいという脱出願望の短編集。

 「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」新潮文庫と同じ内容であるが、自分の読んだのは新潮社版の「大江健三郎全作品 II-2」。なので、新潮文庫版とは収録作品が異なり、並び順が違う。この感想では、とりあえず新潮文庫にならう。「大江健三郎全作品 II-2」では発表順。

第1部 なぜ詩でなく小説を書くか、というプロローグと四つの詩のごときもの ・・・ 「大江健三郎全作品 II-2」では4つの小説のあとに(付)として収録。第2部の短編を生み出すもとになった詩のごときもの。

第2部 ぼく自身の詩のごときものを核とする三つの短篇
走れ、走りつづけよ 1967.11 ・・・ 東大教養学部のあとエール大学に留学して帰国したいとこ。一年間のヒマな時期映画会社のバイトで、ペネロープ・マンダリンという女優のエスコートをする。日本のestablishmentになるという野望の持ち主が、女優に性的ないたずらを施し、嫌われ、そのうえでなお部屋に侵入しようとする。スノッブで野心的で合理的な行動をとるはずの男が性的なものに囚われて、そこにたぶん当時のこの国のエリートの堕落を見る。社会ののけ者になった男が見るアメリカの核の傘と限定地域戦争の恐怖イメージ。ペネロープ・マンダリンはジェーン・マンスフィールドのような劇的な死を遂げる。

核時代の森の隠遁者 1968.08 ・・・ 森の中に暮らす「ぼく」がおそらく「万延元年のフットボール」の主人公に向けて書いた手紙。村の住職だった小柄な「僕」は身長が20㎝も体重が15kgも上回る体育教師を結婚したが、彼女の性的ストイシズムと罵詈雑言に圧倒される。不満を持った妻は淫蕩を重ねたあげく出帆。別の男の子供二人を連れて戻ると、「僕」の家族は村からそうすかんをくって寺を追い出される。この村は朝鮮人のスーパーマーケットに牛耳られていて、村の長老らは株で大損失を出していた。そこで厄払いのために、大食病の女性ジンの葬式にあわせて、御陵祭を開くことにする。ずっと森に棲んでいた隠遁者ギーは村に帰ろうとしたが、徹底的に無視されている。そこで御陵祭の日、仮装をして列の最後に連なり、かがり火の周囲で踊っていたが、引火して燃え上がってしまい、御陵祭がうやむやのうちに終わる。それから村の衰退がはじまり、「ここより他の場所」に村人が出ていく。「ぼく」は彼らの相談に乗りながら、村の最後の一人になると決意する。あらすじにすると面白くもなんともないな。この短編出村の経済、歴史、社会構造、差別や偏見のありかた、神話と民俗など実に多くのことが書き込まれている。その解読も面白いが、ほかの作品(まとめにあげた先行作のほか、「同時代ゲーム」「宙返り」などの後継作品に、同じ名前の系譜「洪水は我が魂に及び」「懐かしい時への手紙」など)の関係がおもしろい。森の中の村の歴史を最後にみるものというのはガルシア=マルケス百年の孤独」を思い起こさせる。

生け贄男は必要か 1968.01 ・・・ 作家の「僕」を悩ます闖入者。巨漢の善太郎は、戦災孤児時代の「無辜なる者の家」という私設孤児院で陰惨な体験をする。そのあと世の中の「悪」を一掃するためにみずから「善」と名乗り、今はベトナム戦争用の玩具爆弾製造会社の告発を行う。その会社社長の息子で、かつて同じ玩具爆弾で右手を失った青年も連れてくる。「僕」は彼らに消極的な協力をするが、子供のパニック発作で頬を叩いたこと(そうしないと障害のある幼児は発作が止まらない)で絶縁。カニバリズムの話よりも、「善」と「悪」の対立で世界が成り立っていると考え、自分の「善」を疑わない男の滑稽さに注目。「生け贄男は必要か」の問いかけは誰にも通じないと思うが、それより巨漢と小男のコンビとか、「善」の実現のためには自己犠牲を厭わない人間とかのイメージはその後繰り返される。


第3部 オーデンとブレイクの詩を核とする二つの中篇
狩猟で暮したわれらの先祖 1968.02-05、08 ・・・ 作家の「僕」を悩ます闖入者。今度は放浪の家族6人。大地主の飼う犬に幼女がかまれたために、空き地を借り受けて住みだす。家長の老人に、老婆、中年女性、若い女性、たくましい若者、幼女という構成。はだしで歩き、犬を解体し、切り落とされた指を捨てたり、異臭のする下水溝を掘り起すなど、住民に癇に触れることばかりする。「僕」の村では戦時中に山の人を狩り出し収容所に強制的に入れたうえに、戦後放逐したことがあり、「僕」はこの一族がそうではないかと思っている。なのでほかの住民のように排除できない。一族は密造酒を作り、もぐりの酒場を開き、若い女性がみだらなショーをやって、主にエリートや官吏などを集めていた。その蜜月も、酔いつぶれた客から金品を盗んでいたことが発覚して終わる。黙認が憎悪に代わり、暴力の気分が漂う。「僕」は一族とともに町を出て彼らの「自由」に参加する夢を見る。もちろんそうできるはずもなく、ついに地主の手配した工務員によって仮小屋が壊され、深い竪穴が埋められる。そのときしゃべらない若者が怒り狂って工務員らにおそいかかる。しかし彼らはリヤカーにのって町を出ていく。この山の人の一族は小説内では狩猟で暮らした生活者の末裔ではなく、「当たり屋」であるとされる(大島渚「少年」1969年公開。映画は1966年の実際の事件をモデルにしているとのことなので、小説もそうかもしれない)。「あたりや」が疎外された/脱出したものであるというイメージに、サンカのような放浪生活者のイメージを加えることで、昭和40年代前半の「現代」の危うさを照らし出す。郊外の中〜高級住宅地に各地から流れ着いて平穏な生活をするもの(おそらく当時の国民のほとんどがかさなる)らも、差別から抜けがたく、「村」のごとき相互監視と中傷と足の引っ張り合いの網の目の中にいる。ふだん隠されているものが周縁の人、余所者、トリックスターの闖入であらわになり、彼らの正義や善の薄っぺらさがあらわになる。もちろんそれを目撃して報告する「僕」の視点は彼らに批判的ではあっても、具体的な行動に移れないので、余所者・トリックスターの排除を支援してしまう。この構造はそのまま国に広げることができて、この放浪家族はすなわち在日中韓人であり公害被害者であり強制代執行で土地や家屋を奪われる人であり原爆被災者で・・・あるのだ。かれらはことを起こし、人目に触れるようになると容赦なく排除される。放浪家族のふるまいは滑稽で、祝祭的であるが、それは背後の差別や排除の悪質さと対比される。ざっくりとはこんな感じ。
 この小説はオーデンの詩にインスパイアされたもの。同じ詩にベンジャミン・ブリテンが作曲した。小説の主題とは関係ないが、参考まで。
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父よ、あなたはどこへ行くのか? 1968.10 ・・・ 大江健三郎「みずからわが涙をぬぐいたまう日」(講談社文庫)-1のエントリーにあるので省略。


 主題は「自由」であって、社会や家庭などに桎梏されている/疎外されている(と思い込んでいる)人が、さまざまな「自由」をみてそれに憧れるという図式。この「自由」がどうにもあいまいで、たんにわがまま・勝手・傍若無人の言い換えであるようでもあるし、セイフティネットや公的サービスを放棄したうえでの行為であるのか、そこらへんがわかりにくい。ただ、どこに向かうか、どのようにありたいかは意識していなくとも、言語ができなくとも、ともあれ「ここではない何処か」「ここより他の場所」に行きたいというロマン派風の憧憬や妄想があるというのは理解できた。そういう「ここより他の場所」の象徴の一例が「核時代の森の隠遁者」で語り手が呼びかける「きみ」がいるアフリカなのだろう。まあ、そのようなティーンエイジャーや20代前半の若者が持つ憧れも、現地にいってしまうとそこも退屈な日常の延長で、束縛や差別から逃れられないというのに気づくことになる。この短編小説集(および「みずからわが涙をぬぐいたまう日」)では脱出したいという欲望を書いているのであるが、実際に脱出する/してみた試みの挫折が「洪水は我が魂に及び」「ピンチランナー調書」なのだろう。
 そして、作家が40代になると、脱出しようと試みることはなくなり、歴史や神話、およびそれを持つ場所見出そうとしたり(「同時代ゲーム」「頭のいい雨の木」連作「懐かしい時への手紙」など)、日常に「自由」をもたらす試みに変えたり(「新しい人よ目覚めよ」「静かな生活」など)したりする。その点では、このあと四半世紀の作家の主題群の萌芽を見いだせる作品集。
 また小説の方法も複雑になり、文体も晦渋。手法を洗練することより、主題を書き尽くそうという強引さが目立つ。なので小説を読みなれていない人には、作家が30代のころの作品はとっつきにくいのではないかな。でも「核時代の森の隠遁者」「狩猟で暮らした我らの先祖」のストーリーテリングはみごと。おもしろかった。
(オーデンの詩集は作家が参照した筑摩書店の深瀬基寛訳ではなく、小沢書店の中桐雅夫訳で読んだことがある。自分にはうーん、よくわからなかった。