odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

大江健三郎「新しい文学のために」(岩波新書) 「小説の方法」に続く文学の理論化。大江作品を読解する参考になる。

 「懐かしい年への手紙」を書くことによって、文学の方法をあらためて考えることにし、「小説の方法」(岩波書店)に続けて、文学の理論化を行うことにした。小さい書物なので、作家の考え方がコンパクトにわかるのではないかしら。

 自分の興味に合わせて、再構成してみると
・文学ないし芸術の想像力は、実際の経験を保存する(個々人では体験できないようなできごと、たとえば原爆被災とか外国での冒険とか)、実現されなかった可能性を予見し未来の経験を示すこと(起こるかもしれない全面核戦争とか原子力発電所の事故とかミュータントの誕生とか新たな共生社会とか)。それを読んだ読者が世界を認識するモデルを構想し、社会行動の活動範囲を広げ、現実の生活や政策などに反映するようになること。これは、書くことにおいても読むことにおいても起こり、「主体」を変える契機になる。
・そのような文学を読む/書くときの注意するポイントは、「想像力」「異化」「道化=トリックスター」である。
・想像力は、事物のみる自動化作用(ああ、あるなあ、いつもとおなじだなあ。どころか、ああ、あったのか言われるまで気づかなかった、という意識というか物の見方)をとめる力で、プラス・積極的な評価をもっている。ここにはガストン・バシュラールの考えが反映しているとのこと。でもって、想像力は、マイナス・消極的な「空想」とは区別されるべき。想像力を喚起すること、想像力で喚起されることによって、人間の生き方の確信や励ましの力をもつという。(まあ、上記の人災や差別の被害者が生活をしていこう、世界を変えていこうという生き生きとした力には想像力があるという意味。その想像力に共鳴、共振することが重要。)
・異化は、人間の意識が自動化、反射化して新しさとか生き生きとかを失っていく傾向に抗して、知覚を難しくし、長引かせる晦渋な形式である。そうして時間をかけた知覚に寄って、人間の意識は自動化、反射化からまぬがれる。それは文章にもあって、言葉にはくりかえしつかわれることによって汚れやくたびれがくっついてくる。新聞とかエンタメの文章を思いうかべればよい。情報の新規さ以外に、読者を喚起するものはない。でも、異化されたことばはそうではない。詩とか古典などを思い浮かべればよい。
・道化やトリックスター、幼児神、女性神などの神話の祖形にあたる人物は、人間の異化作用をあらわすキャラクター。彼らが、おどけたり、踊ったり、冒険したり、追放されたり、悲嘆にくれたり、いろいろすることで、生活の汚れやくたびれを一掃し、生活や社会を生き生きとさせ、励ましの力をもたらす(彼らが悲惨な結末を迎えたとしても)。
・カーニバルは日常の中に非日常を持ち込む。その結果、世界の秩序の転倒、価値の転倒、役割の転倒がおこり、想像力をかきたて、世界を生き生きとしたものに変える。このカーニバルの場で、道化とトリックスターはもっとも生き生きする。
・グロテスクイメージは、いかめしいものや儀式ばったものではない、笑いを根本においた文化があり、それを表現するとグロテスク・リアリズムが浮かび上がる。物質的・肉体的・宇宙的な要素・イメージがひとかたまりであらわれる。頭で考えた抽象的な原理ではない。そしてカーニバルと同じような価値の転倒、世界を見る見方を変化することができる。
 公のような方法で小説を読み解くことも行われるが、その具体例は「文学再入門」のエントリーであげた
 文学ないし小説を書く行為には、ダンセイニや荒俣宏の「御筆先に乗っているだけ(「帝都物語」)」や、司馬遼太郎の「マヨネーズを作るより自由(たしか「竜馬がゆく」)」などがある。あるいは、原稿用紙の使い方とか、句読点の打ち方などの文章作法に構成方法を教授するような作法本などもある(筒井康隆「あなたも流行作家になれる」)。それくらいに、文学というか小説を書くことは、まだまだ技術論を検討中らしい。アメリカの大学にはベストセラー作家になるための講座もあって、そこで講義もあるけど、結局は実作と添削の師弟関係でもって習得することになるらしい。
 「方法」「理論」などときくと、そのとおりになぞれば巧拙はあっても、それを使えば素人でもどうにか再現可能であると自然科学を学んだものとしては思うのだが、こういう文学や芸術の「方法」「理論」はそのようではないのだね。それに在野の人で教育をする立場でもないので、汎用性のある「方法」「理論」にする意思はないよう。この作家の「方法」「理論」であって、彼の作品を読むときの参考にはなる。