odd_hatchの読書ノート

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アーシュラ・ル・グィン「世界の合言葉は森」(ハヤカワ文庫)

 1970年代に書かれた中編2作品を収録。「アオサギの眼」は「女の千年王国サンリオSF文庫にも収録されたとのこと。

世界の合言葉は森 The Word for World Is Forest 1972 ・・・ 地球人が銀河系に進出し、植民地惑星を開拓している時代。ニュータヒチと名付けられた森林の惑星に5000人規模の入植者と軍隊が入り、森林の伐採を行っていた。伐採の規模は大きく、森は破壊されていく。その事業にはアースシー人が「無償労働」に駆り出され、過酷な労働環境で彼らの住む森を破壊していた。そのような関係ができたのは、アースシー人が1メートルたらずの身長でかつ緑色の体毛でおおわれており、無文字で、変化のない社会体制をつくっていたから(政府や法はなく、夢見と呼ばれる呪術的な方法で集団の方針を決める)。数か月経過したのちに、アースシー人は地球人の基地を襲撃する。それは、争いや諍いを同種族内では決して行ってこなかったアースシー人にとっては苦渋の選択だった。
 主要人物は三人。まず地球の軍人ディヴィッドソン大尉。彼は帝国主義植民地主義の化身であり、男性優位や権威を相手に要求する人物。もっとも強硬なアースシー人虐待の首謀者である。それに対置されるのがアースシー人のセルバー。彼は地球の民俗学者リュボフの従僕になっていたことから、地球人とその政策の知識を得て、結果としてアースシー人の対抗の指揮官となる。彼はアースシー人の森との共生や持続可能社会の維持を体現する人物になる(もっとも人間と交流のない長老からすると異端のように思われる)。このような支配と共生、資源の収奪と資源の再生が、社会の対立となって表現される。この主題は、かつての長編(「闇の左手」「辺境の惑星」など)でも現れたのだが、今回は少し様相が異なる。かつては原理や思想の対立は会話と共同生活で乗り越えられるかその可能性を示唆するのであった。ここではそのような和解の可能性はない。どちらかがどちらかを排除するまで終結しない。その和解の不可能性に懊悩するのが、上記の民俗学者リュボフ。彼はアースシー人の文化を理解しようとつとめ、ディヴィッドソンとセルバーの仲立ちを試みるが、いずれからも拒否される。これは読者である自分には苦い。異文化の理解、多文化の共生の可能性が閉ざされているからだ。
 作者が多文化の共存を不可能にしてしまった背景には、おりからのベトナム戦争があるだろう。ディヴィッドソン大尉らの軍事行動(ナパームで森を焼却、ヘリからのアースシー人の銃撃など)はそのまま当時のアメリカ軍の戦術だった。とはいえ、アースシー人の対抗が正当化というと、それを主張するには苦い行為が描写される。森の伐採基地を襲撃するとき、アースシー人は地球の女500人を集めて全員殺すのだ。すなわち繁殖の機会をなくすこと。それを実行したのはアースシー人の女たちだった。喉元がひりひりするような、どうにも陰鬱な物語。そのような読後感がさらに重くなるのは、本を閉じた後に読者がもどる現実においても文化の衝突と排除があり、その解決はとても困難なことだから。


アオサギの眼 The Eye of Heron 1978 ・・・ 地球で「ロング・マーチ(長征)」があった。何かわからないが不満を持っていたり希望を持つ人たちがモスクワからリスボンをめざし、そこから新大陸へ行こうとする。新大陸には1万人も到着したので、そこの政府はとても支援はできないと移民を断り、彼らに片道のロケットを提供した。惑星「ヴィクトリア」はもとは囚人の流刑用であり、そのあと開拓地になった後、捨てられた。ヴィクトリアに最初に入植していた人はシティに住み、あとから「ロング・マーチ」で選抜されて入植したものはシャンティに住む。それぞれ別の居留地に住むが、シティはシャンティの人を労役につけたり、不平等な交易を押し付けたりしていた(シティにしか工業技術がないので、シャンティで農業をするにはシティから農具他を購入する必要があった)。
 以上の前史が、読者と地続きの世界で起きたことのパスティーシュになっていることはあきらか。アメリカへの数度の移民、アメリカの西部開拓はもとより、古いゲルマン民族の移住から、汗帝国の侵略からの逃亡などさまざまな史実を重ねることができる。
 さてそれから50年。地球はとうにヴィクトリアを見捨てていて、シティとシャンティの関係はそのまま継続中(なお、ヴィクトリアには先住民族がいないので、彼らの文化衝突は起こらない)。しかし、シャンティはシティとの関係に満足していないので、北に新たな開拓地を作り移住する計画を持っていた。一方シティは増える住民のために、シャンティの労働力をあてにして農地を新たに開くつもりだった。シャンティの開拓計画にシティはノンといい、住民十数名を捕虜とし、開拓地に送った。それも数日のこと、負傷者・病人を開放しないので、シャンティの捕虜たちは深夜に逃亡する。そこでシティとシャンティの緊張は一気にたかまり、一触即発になる。
 さて、この一連において、シティの権威と権力はファルコというマッチョで開拓時代の自由主義の信奉者に体現される。一方、シャンティの直接民主主義と非暴力抵抗はレブという若者に体現される。この二人の言葉と行動の対立が小説の主題。それはそのままアメリカの自由と民主主義の対立、資本主義と自給自足経済の対立となる。あるいは執筆の前に「終結」したベトナム戦争を表しているともいえる。著者は、この小説ではおおむねシャンティの自立するコミューンに共感を持つが、手放しの賛美をするわけではない。非暴力であるとはいえ、シティの暴力には暴力で対抗し死者を生じるまでに至るし、シティとの和平と公平な取引条約が結ばれたとき、シャンティもまた自分らの計画をひっこめ、シティに依存する経済体制はそのままに継続することになる。自由と民主は、それぞれの「正義」を衝突させ、どこかに妥協点を見出すことにあるのだが、その妥結点は万人の利益にかなうことはない。それぞれが不利益を負担することを了解することで、とりあえず複数の「正義」が成立する。もしシャンティが「革命」を起こし成功したとしたら、シティの住民がマイノリティになりシャンティの正義を押し付けられる差別を生じるだろう。小説においても、現実においても正義の実現はなんとも苦いし、面倒なことが。そのような面倒を引き受けるのが自由と民主の「市民」なのだろう。
 このような対立とあわせて垣間見えるのが、男性と女性の関係。二人の重要な女性がいて、シティの権力者ファルコの娘ラズ。もう一人はシャンティの独身中年で女族長的な雰囲気をもつヴェラ。ヴェラが捕虜になってファルコの家に軟禁され、ラズと出会う。ラズはマッチョなシティの思想に疑問をもっているものの権威主義的な社会で自分を主張できない。それがヴェラと会うことから、主張する自立する女性に代わる。以下のヴェラの言葉が重要な契機。

「男の人の弱いというか危なかっしい点は、虚栄心が強いこと。女には中心がある。女は中心そのものなの。男は違う。男って外へ外へと伸びていこうとする。伸びていっていろんなものをつかんで来ては、自分のまわりに積み上げてこう言うの―――ぼくはこれ、ぼくはあれ、あれはぼく。ぼくはぼくだということを証明するんだってね。そして証明しようとしてたくさんのものを破壊することもありうるのよ(P265)」

 そしてラズはシティを「裏切り」、シャンティにとどまる決意をする。それはのちのシティとシャンティの衝突に重要な影響を及ぼす。あいにく暴力を止めることはできなかったが、シティの譲歩を引き出すことになった。そのうえ、ラズは北への移住計画をあきらめたシャンティに活を入れ、少人数の移住の冒険を主導し参加することになる。そこにいたると、集団の自由と民主の主題が横に置かれ、マイノリティの自立に変化することになり、それまでの物語とずれてくるので座りが悪い。
 とはいえ、この時代に書かれた多くの農本ユートピア、ヒッピーコミューンのSFとは群を抜いて素晴らしい。それは文化の衝突や多文化共存、それを成立させるまでの諍いや暴力を描写し、安易な解決にしなかったことにあるだろう。上にまとめたように、この小説に書かれた自由と民主はそれを実現する運動だけがあって、政治や社会の仕組みの解決を描いていない。そこが凡百のSFとの違い。運動だけがあってこれは歴史に抗する普遍性があるから、小説が書かれたときの状況が変わっても、読む意味と価値を読者が見いだせる。


 解説も含めて、この時代のル・グィンの小説は「女性」を主題にしたものとして読まれる。自分が読むと、その主題は背景に退いていて、むしろ自由と民主を問題にしていると思う。1968年「闇の左手」の後、少し立ち位置が変わったのかもしれないと思うが、その間の作品を読んでいないので、よくわからない。