odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

アーシュラ・ル・グィン「天のろくろ」(サンリオSF文庫) 世界を創造管理している超越的な存在に直接つながる男が見た夢。世界をよりよくしたいという個人の野望は全体主義的になってしまう。

 タイトルの「天のろくろ」は、まあ運命みたいな、あるいは世界を創造管理している超越的な存在のいいかな。解説によると、作者はこのことば(「The Lathe of Heaven」)を荘子に見つけた(第二十三)というが、あいにく英訳した訳者の誤訳であるとこのこと。訳者の勘違いのおかげでル・グィンのイメージが作られたのだから、それはそれでよしとするか。

 この<私>が住んでいる世界は、誰かの夢の産物なのではないか、誰かが5分前に創造しこの<私>の記憶は捏造されたので5分前より昔は存在しないのではないか、という疑いを持つことがある。困ったのは、そういう考えを否定しようにもその根拠がどこにもない。この<私>の認識はこの<私>の意識によって構成されて変形されているから、「それ以前」の「真実」「事実」を見る外側にいくことができないから。うろ覚えと中二病的妄想で書いてみた。哲学ではどういう説明がなされているかはしらないが、おおよそこんな感じらしい。「主体」「私」から物事を考え始めると、どうしてもこういう認識の疑惑にたどりついて、深い懐疑の渦にまきこまれてしまう。そこから抜け出る思考もなかなかに困難だろうなあ、と思う。
 このフィクションだと、ジョージ・オアという神経症患者は、我々の懐疑とは別の困難を抱えている。すなわち、彼が夢を見ると、現実はその夢を微妙にずらした解釈で変形してしまい、周囲の人は世界が改変されたことに気付かない。オアは不眠症の治療のために催眠術を受ける。そのとき「馬の夢を見ろ」と命じられる。するとオフィスには馬の写真が貼ってある。最初はそんな小さな改変だったが、施術者のヘイバー博士はあまりの善意(と抑制された権力欲)のために、人口過密な世界を変えるようにオアに命じる。すると、80億人の人類のうち70億人が消えていて、食料不足・住居の不足などが解消されている。それは好ましいことだが、オアの夢のおかげで、この世界には疫病が蔓延して、大量死が起きたことになっている。そして新たな差別(疫病の兆候を持つものの強制的な安楽死)が起き、一方、かねてからの戦争の脅威は消えていない。今度は「戦争のない世界を」と命じられると、異星人に地球が侵略されそうになり、地域紛争は棚上げにされるという具合。まあ、「悪魔の取引」の現代的な改変です。どれほど念を入れたつもりになっても、悪魔が願いを聞き届けるときには不幸が起こるというような。
 個人のもつ理想は全体主義的になるというところにも注意。世界をよりよくしたいという個人の野望は、彼の好き嫌いが反映されて、理想や野望に合わない人や組織を排除し、収容し、絶滅させる。理想主義者が権力をもつと、絶滅収容所つきの全体主義国家を作り出す。彼の意図がどうあるかは別として。オアのような懐疑的な人でさえ、社会の変化は抑圧を生み出すのだ。
 オアは、ただ一人改変前と後の記憶をもっていて、罪悪感を感じている。自分の能力で多数の人を殺してしまったが、その命令というか権力を自分が行使してよかったのか、と。他人を救済することはできるが、自分を救済することができない無垢な救い主。彼の夢見による世界の改変は、大多数の幸福を実現しているが、その代償が大きいことが悲劇。彼自身はおろか彼の周辺にいるわずかな理解者すら救うことができない。ムイシュキン侯爵やパルジファルのような扱いにくい人物。
 彼に救いをもたらすのは、夢見によって召喚した「アルデバラン人」。この異星人が、地球人とは異なる世界認識を持っていて(なにしろ人類と同じ感覚器をもっているか定かでない)、翻訳不可能の言葉で我々を謎めかすしかない。なにしろ彼の宣託のひとつはビートルズの「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンド」だしね。オアはアルデバラン人の言葉を理解しようとつとめるが、成功しない。それでも彼が安心するのは、オアを理解しているように見えること。まあ、このような独我論の外にいる異星人のコミュニケーション(いやコミュニケーションの不全カ?)が、オアの神経症と夢見を治癒する。独我論を超越する第三者の視線を意識に取り入れることが、世界の5分前仮説とか誰かの夢である仮説を克服するわけだ(仮説を否定するのではなく、仮説を問題と思わなくなること。意識を日常化すること)。
 そういう大人のおとぎ話。外見は、フレドリック・ブラウン「発狂した宇宙」(ハヤカワ文庫)フィリップ・K・ディック虚空の眼」創元推理文庫)みたいな多元宇宙SF。でも、ここでは異星人という「外部」を物語に導入することで、独我論を克服するというのがユニークなところ。300ページ強の短めの長編だが、主要登場人物がたった3人。これも実験的な試み。
 1971年初出。ビートルズに限らず、いたるところに1960年代の刻印があるので、この時代の知識がある方が楽しめる(環境破壊、化学薬品による催奇形性、ゲリラ戦争、都市部の暴動など)。なお、一連のハイニッシュ・ユニバースシリーズとは無関係の独立した一編。

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