odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

アントワーヌ・サン=テグジェベリ「星の王子」(岩波少年文庫) 「星の王子」は高度3000-5000mくらいを時速200-300kmで高速移動する場所で考える「人間」。憂い顔の王子は他人とコミュニケートできない。

 自分はサン=テグジェベリの良い読者ではなくて、久しぶりの再読でもこの童話には感心できなかった。
 この人は飛行士であって、黎明期(1920−30年代)の夜間飛行を行うくらいの冒険野郎だった。当時のこととて、レーダーはないし、航空管制もないし、地図も満足なものはなく、なにしろ飛行機自体の安全性もよくない。航続距離を伸ばすために燃料を満載したいが、非力なエンジンでは積載重量が多いとむしろ効率が悪くなるので、最低限の燃料しか積めない。そういう状況で、彼はアフリカや地中海の郵便飛行のパイロットとして飛び回っていた。そうすると、目視で目的地に着かなければならず、目標を見失うことはほぼ遭難と同義。燃料が切れたらそこでお終い。運よく不時着したとしても、半径百kmの範囲には誰も住んでいない沙漠だったり、悪ければ海だったりする。これが夜間飛行となると、町の明かりだけが頼りになるが、海で操業する漁船の明かりを町と間違えることになるかもしれない。コクピットで音楽を流したりラジオを聴くことなぞ思いもよらず、気を抜くことはそのまま命を落とすことになる。
 そういう暮らしをする人だ。「人間の土地」は、上記の事情をまとめた小説?で、当時の夜間飛行士がいかに冒険野郎であったかがよくわかる。とりわけ草分けから従事しているサン=テグジェベリは、次第に飛行機と航路が安全になっていくことに不満を覚えるくらいに、職業=冒険を愛していたみたいだ。
 そのような彼が「人間」を考えるとき、普通の人とは異なる場所にいる。たいていは、自分の書斎か家庭あたりをモデルにして、商店街や仕事場があり、ときには異国人もくるような場所から考える。まあ生活する場所だということができる。飯を食い、人と交通する、重力で地面につながっている場所。そうすると、人は社会的歴史的な存在になってくる。自分が読むような「人間」論はそうした場所でのもの。ところがサン=テグジェベリのは、高度3000-5000mくらいを時速200-300kmで高速移動している。半径10km以内には、他の存在はない。不時着をすれば半径100km圏内に人っ子一人いないというのもざら。無線で交信はできるけれど、他人は彼の前には現れない。そのような重力の桎梏から無理やりに飛び立った場所でサン=テグジェベリは人間を考える。
 「人間の土地」で彼は砂漠に不時着し、数日後に救出されるという経験を書いている。その時に受けた啓示が書かれていたが、上のようなことを考えていたのでどのような啓示であったかは忘れてしまった。
 さて、「星の王子さま」は「人間の土地」の続きになっている。語り手「わたし」は砂漠に不時着し、飛行機を修理しないと社会に戻れない。孤独と焦燥、乾きと暑さ、ジェラルミンの機体と砂、「わたし」と沙漠のヘビ。なんとも厳しい状況にある。
 そのような極限状態に「小さな王子」が現れる。小さな星にひとり住む王子は、別の星に行き、いずれも一人きりで住んでいる彼らは王子を邪険にし、王子は地球に落ちる。迎えるのはキツネにバラ、そして不時着した「わたし」。王子が凡百のファンタジーの主人公と異なるのは、冒険しないし、成長しないことか。彼はコミュニケートしようとして、誰からも拒否される。そのうえで謎めいた啓示「大事なことは目では見えない」を「わたし」に伝え、星に戻る。たぶん彼の憂い顔はそのまま。そしてたぶん「わたし」は王子だし、王子は「わたし」である。二人の区別はつかない。しかも、彼らはそのままサン=テグジェベリ自身。
 これがたぶん、高度3000-5000mくらいを時速200-300kmで高速移動する場所で考える「人間」なのだろう。
 自分には「大事なことは目では見えない」はほとんど理解できないし、サン=テグジェベリのように高度3000-5000mくらいを時速200-300kmで高速移動する場所で「人間」を考えることもできない。だから彼は具体的に書いているのに、その内容は神秘(@ウィトゲンシュタイン)そのもの。