odd_hatchの読書ノート

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生井英考「ジャングル・クルーズにうってつけの日」(ちくま学芸文庫)-1 1962年から1969年までのアメリカの参戦からベトナムでの戦いの激化まで。

 戦争をまるごと全体とらえるというのはだんだん難しくなっていく。古い戦争では、ある特別な会戦に注目することによって、軍隊、政治、経済、大衆の生活などへの影響を表現することができた。表現されたものに「全体」が含まれていると錯誤することができた。
 ところが、20世紀の戦争からはそのような「全体」「まるごと」「中心」「焦点」を見出すことが困難になってくる。戦線が広大になった、ある会戦の結果だけで帰趨が決まらない(勝敗の付き方が不明確)、前線と後衛の分離が不明瞭、総動員戦になって当事者が国民全体に拡大、などなど。そうなると、一人の表現者が自分の体験と資料でもって、戦争をとらえることができなくなってくる。それがさらに自身の国では起きていない戦争であった場合には。
 著者は当然、戦争の現場に行くことのできない年齢にあたる。なので、同時代と1980年代になって大量にでてきた「ヴェトナム戦争」関連の資料を読み込む。ここでは、個々の戦闘行為とその結果については述べない。その種の戦記を目指していないから。代わりに、さまざまな立場の人の証言や資料を引用し、いくつかのカテゴリにまとめる。漏れるものもあらわれるが、まあ「全体」の枠組みみたいなのは提示できるだろうという意図は見えてくる。
(この本の意図には、アメリカの悪の告発、ヴェトナムの欺瞞の告発というセンセーショナリズムはない。1980年代半ばまでにその種の暴露や批判は行われてきたし、その告発もまた「歴史」のできごととして、観察者として冷静にみることに努める。)

プロローグ Prologue ・・・ 「戦争目的のはっきりしない戦争」「情報はやたらたくさんあるのに全体像がつかめない戦争」としてのベトナム戦争をさまざまなメディア資料を使って検討したい。
Ⅰ事実と印象 Facts and Impressions
1 戦争は9時から5時まで The Nine-to-Five War ・・・ 1960-64年までの概況。カソリックで新興ブルジョアの息子で政治的な支持地盤のない若い大統領が就任。そのときに、モダニストたちが政党の枠を超えて終結(「ベスト・アンド・ブライテスト」)。統計数字で管理改善する仕組みを作ったマクナマラが参加。経験と知恵の古い政治家から、統計と管理の経営マネージャーが政治をするようになった、といえるのかしら。彼らのような頭のよいエリートが合理的な判断で戦争を決意していく。その際、「戦略村」「サーチ・アンド・デストロイ(索敵殲滅作戦)」「枯葉剤」など基本戦術はこのころには出揃っていた。ベトナムのゴ・ディンジェム政権はやりたい放題で、アメリカも手を焼く。僧侶の焼身自殺などの抗議のあと、軍事クーデター。それ以降、南ベトナムの政権は不安定なまま。そして駐留するアメリカ兵は増員されていくが、緊張感はまだない。タイトルは当時の駐留アメリカ軍の現況を示したもの。でも、これは伝統みたいで、南太平洋や沖縄などの日本兵が同じことを指摘していた。
2 アメリカン・グラフィティーズ The American Graffities ・・・ アメリカは南北戦争の時から徴兵制と志願兵制をとっていて(1980年代に徴兵制は廃止になったと思う)、若者にとって兵隊になることは避けがたいものであった。もちろん免除や兵役逃れや優遇があって、くじにあたるように兵隊になったわけではない。ベトナム戦争の統計を見ると、配属された兵士の平均年齢は19-20歳で、戦死者もこの年齢層に多かった。もっとも大規模に配属されたのは1968-69年で、この時代のティーンエイジャーの性格を特長つけている。章題はコッポラ監督の映画のタイトルだが、兵隊たちの多くはこの映画に自分の影を見出していた。
3 天使たちの丘のむこう Beyond the Hill of Angels  ・・・ 1967-68年の戦闘のではケ・サンの攻防戦に焦点があてられた。どこが前線でだれが敵かわからない戦争において、山頂の砦はアメリカ軍の戦略(物量で面を確保し、緩衝地帯をもうけて、占領地を広げていく)にぴったりであった。しかし、1968年2月のテト(旧正月)攻勢で、南ベトナム全域の蜂起があったあと、アメリカは北ベトナム占領を戦略目的からはずし、撤退することを決めた。その年に、ジョンソン大統領は北爆停止と大統領選不出馬を表明し、アメリカが勝ちを放棄する象徴となる。あと、アメリカはゲリラ戦の体験のない軍隊であるとされるが、これは1987年当時の評価であって、アフガニスタンとイランを経験した後では、ゲリラ戦のもっとも熟達した経験者ではないか(勝利を得るほどの戦術、戦略は編み出していないようだが)。ここらは、統計数字や投資対効果などの数値的経営手法で管理するケネディと「ベスト・アンド・ブライテスト」の軍事・国家統治戦略がルールを共有していない敵やライバルにまけたことを意味する。


 ここでは、1962年から1969年までのアメリカの参戦から戦いの激化までをみる。これでだいたいおおざっぱなヴェトナム戦争の推移を知ることができる。冒頭にも書いたように、個々の戦いを拾い上げることはしない。そのようななにかを決定する戦いは、ケ・サンの攻防戦とトト攻勢で終了してしまった。そのかわりに、待ち伏せと強攻偵察、北爆と枯葉剤散布のような散文的なルーティンの戦いが描かれる。町や村を占拠したとしても、それが軍事的な勝利であるとはいえない。絶え間ない緊張が不安を増大し、兵士をヒステリックに神経質にしていく。
 あと、この戦争から、戦術や戦略などが軍学戦争論で決まるのではなく、経営学やマネジメントの手法や統計学できまるようになった。哲学から科学へ、敵軍の後退や降伏からミッション達成度合いの数量化へ、将軍の人心掌握から医学・精神学のケアへ。戦場が企業のようになっていく。それが戦争の効率化(とはいったいなにか)を達成するか、というとそうともいえない。戦争の暗黙のルールが敵味方で共有されていないと、殲滅戦・消耗戦になってしまい、経営指標や統計数値の意味が薄れてしまう。

 この本では1975年で記述は途切れる。そのあとを補完すれば、1975年に北ヴェトナムが全土を掌握。と同時にほぼ鎖国状態になり、状況がわからなくなる。あとで判明したのは、南ヴェトナム解放戦線は新政権に参加することを期待していたが、北ヴェトナムの共産党が政権を掌握し、党員でない解放戦線のメンバーは弾圧・粛清された。1980年代になると命がけで国からでる「ボート・ピープル」が発生する。亡命に成功したものは様々な国に住んだが、そこで差別にあうことになった。
(1980年代初頭のルポを2つ紹介)

 隣国カンボジアでは、親米のロン・ノル政権がヴェトナム人を虐殺したこともあるなど、民主化を弾圧。そこで、クメール・ルージュなどの左翼勢力が武力でロン・ノル政権を打倒。その後、旧政権関係者、富裕層、各種専門家および知識人への関係を持った者および親ベトナム派の党員、ベトナム系住民を殺戮。1978年にカンボジア・ベトナム戦争共産主義国同士の戦争で多くの左翼知識人に衝撃を与える)。1979年にヴェトナム軍と反ポル・ポト派軍が武力で政権を打倒。ポル・ポト派を支援していた中国とヴェトナムの間で1979年に戦争が起こる。中国軍は多大な損害を出し、1か月足らずで撤退に追い込まれた。
 ヴェトナムやカンボジアが一国内の経済体制を取ろうとする政策をやめたのは、1990年代にはいってから。同時に、生産や商業資本を私有することを認めて、外国資本の導入に積極的なっていった。1980年代には世界の最貧国に数えられていたが、21世紀の10年代には高成長が見込まれる国になっている。
 2010年代にはこういう本が出ている。

  


2014/07/15 生井英考「ジャングル・クルーズにうってつけの日」(ちくま学芸文庫)-2
2014/07/16 生井英考「ジャングル・クルーズにうってつけの日」(ちくま学芸文庫)-3
2014/07/17 生井英考「ジャングル・クルーズにうってつけの日」(ちくま学芸文庫)-4