odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

生井英考「ジャングル・クルーズにうってつけの日」(ちくま学芸文庫)-2 ヴェトナム戦争を同時代の人々がどのように「表現」したか。家に居ながらにしてみることができた戦争。

2014/07/14 生井英考「ジャングル・クルーズにうってつけの日」(ちくま学芸文庫)-1

  第1部の「印象」を受けて、ヴェトナム戦争を同時代の人々がどのように「表現」したかをみる。この戦争がユニークなのは、TVカメラが入り、その日に起きたことが当日の夕方のゴールデンタイムや翌朝のニュースで放送されたこと。戦場や兵站の場所でなくても、「戦争」を家に居ながらにしてみることができた。もちろんヴェトナムにいったのはTVクルーだけではなくて、新聞記者、カメラマン、特派員、小説家、映画クルー、コメディアン、俳優、ミュージシャンなどさまざまなメディアの関係者。あるいは政治家、ビジネスマン、学者、研究者、一攫千金を狙う山師、観光客、ボランティア、ヒッピーらも。彼らが戦争の最中に、あるいは戦争のあとにどのような表現をしたかというのが鳥瞰される。

Ⅱ印象と表現 Impressions and Representations
4 アメリカン・ウェイ・オヴ・ウォー The American Way of War ・・・ 第2次大戦までは、アメリカの兵隊の任務期間は数年であり、集団で戦地や任務を変更していた。それをこの戦争から任務帰還を1年とし、個人で移動するようにした。除隊後のPTSDなどを考慮した政策だった。そしてアメリカの日常の継続を戦地に実現しようとした。戦闘のあとの冷えたビール、焼き立てのステーク、コーク、ハンバーガーなど。しかし、知り合いのいないところに放り込まれ1年間を耐えることは、兵隊に退廃をもたらした。基地内と戦闘地域の場違いなほどの落差。耐えることのない緊張、目的のなさ、ドラッグ、抑うつなどなど。もともとアメリカの兵隊には残虐行為の伝統があったが、それがヴェトナムでも発揮された。このような戦闘をメディアはほぼリアルタイムで報道した。兵士の残虐行為、テト攻勢での混乱などが伝えられると、戦争の支持者が減った。また帰還兵への差別的、侮蔑的な見方が市民の間におこり、彼らは帰還後もストレスを受ける。ほぼ10年間沈黙したあと、映画・小説などで帰還兵は自己表現を行うようになる。
5 冬の音楽 The Wintry Musics ・・・ ケネディと彼の「ベスト・アンド・ブライテスト」は1938年のミュンヘン会談を見て、政治的・外交的なセンスを持つようになった政治家。ベトナムを報道した特派員には2種類いて、ひとつは他の戦争を体験しているオールドスクール。彼らは軍の発表をコピーして解説を加えるような人たち。もうひとつは、20代の野心だけをもつ行動的なタイプで、兵士と行動をともにしながら、危険な作戦についていった。当然、死傷するリスクは高くなる。彼らは、プライベート・アイの持ち主で乾いた文体で行動や会話だけから心情を描くことにたけていて、政府や軍の高官などへの批判的視点を持っていた。重要なのは、オールドスクールからは古いタイプの論説が生まれたのにたいし、若い世代のレポは個人的で、しかし迫真的だった。そういうレポや写真集が1980年代にたくさん出版される。あと、ミドルクラスの保守層をターゲットにする「エスクワイア」誌を例にして、ヴェトナム戦争の報道の仕方の変遷を見る。章題は当時のアメリカ兵士の聞いた同時代のロックやソウルなどの流行歌を総称する隠語らしい。
6 ヴェトナム・ミステリー・ツアー Vietnam Mystery Tour ・・・ 北ヴェトナムのシンボルであるホー・チミンとヴォー・グエン・ザップの半生を紹介。この二人は、毛沢東周恩来のようにアジア的父性と西洋的知性を備えたペア。そのイメージは、映画や写真で強化される。その例をプロパガンダドキュメンタリー映画ディエンビエンフーの大決戦」1965年に読み取る。一方、南ヴェトナムの傀儡政権で独裁政治を敷いたゴ・ジン・ジェムの半生を対比する。面白いのは、これらのヴェトナムの指導者・政治家がフランス植民地時代のヴェトナムエリートを養成する学校の卒業生であること。ヴェトナム内部では、近代と反近代の争いもあったが、近代化の方法をめぐる争いでもあった。このようなアジアの民衆・人民の対立や個性は、非アジア人からすると理解しがたいようで、軍人はおろかソンタグのような知性あるユダヤアメリカ人でも容易ではなかった。
7 ハーツ・アンド・マインズの喪失 Losing the Hearts and Minds  ・・・ 「心と信頼(ハーツ・アンド・マインズ)の獲得」はアメリカ軍の民亊の目標だったが、1972年にはその達成に失敗したことがあきらかになった。同年のパリ会談では、交渉の主導権は北ヴェトナムにあった。アメリカの落胆と喪失感、ヴェトナムの健康さと高揚は、エンターテイメントの表現にも表れる。北ヴェトナムは国営の映画会社と映画学校を作る。彼らの力を結集した最初の大作として「愛は17度線を超えて」が作られる。そこには、教科書的なストーリーと配役、モンタージュなどの技法があって、プロパガンダではあっても「映画」への健康な信頼がある。そのときハリウッドでは、映画会社の制作プロセスが解体していて、表現のしかたも変化していた。アメリカン・ニュー・シネマという素人的で画面の汚い、しかし同時代の観客の目を引き付ける映画を若い連中が作っていた。一方、ボブ・ホープという移民の息子で、映画というアメリカの周辺(マージナル)なところにいたコメディアンは第2次大戦から1972年のヴェトナムまで慰問興行を行っていた。ホープのギャグや笑いはほとんど差がなくても、兵士の受け入れられ方は変わっていく。ホープは、軍隊の慰問(それも前線)に行くことによって、「アメリカ」と個人を結びつけていたのかもしれない。


 この章に登場するのは、軍属ではない。政治家、議員、シンクタンク、映画会社員、俳優、コメディアンなど。彼らのいわば「外」の眼で見たヴェトナム戦争の諸相が描かれる。
 ボブ・ホープの話は、2003年以降のイラク戦争で、軍の前線基地で慰問公演をしたWWEにも共通するだろう。プロレスは、ワーキングからミドルクラスのアメリカ人と移民に娯楽を提供していている。社会のエリートやインストリームのメディアには無視されている存在だ。そのような周辺にあるエンターテイメントが社会に貢献していることをアピールし、存在感を示そうとするとき、ナショナリズムを背負って、軍隊との結びつきを強調するのは理解しやすいこと。毎冬、クリスマスの時期に、本土と同じセットを運び、強い日差しのもとで同じ演出のショーを開いた。兵士たちは軍装のまま観客席に座り、歓声を上げた。さて、その遠征に東アジア系とヒスパニックの選手が参加していたかは記憶にない。
2014/07/16 生井英考「ジャングル・クルーズにうってつけの日」(ちくま学芸文庫)-3
2014/07/17 生井英考「ジャングル・クルーズにうってつけの日」(ちくま学芸文庫)-4