odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

石川文洋「戦場カメラマン」(朝日文庫)-1

 著者は沖縄生まれ、東京育ち。沖縄戦の前に疎開していたので、戦禍に会うことはなかったが、親類縁者に多数の死者がでた。そのことを知る祖母がときおり登場し、当時を述懐する。その言葉が、以下のヴェトナム戦争とそれ以降の戦場の被災者、被害者に重ねられる。沖縄はこの本の主題ではないが、ヴェトナムと沖縄を照らし合わせることで、この国の立ち位置が見えてくる。

世界無銭旅行への出発 ・・・ 1964年まで。東京で鬱勃としていた青年が香港に渡航。写真の技術を生かして、報道者に出入りしていきながらカメラマンの腕と装備を磨く。そして北爆の始まったころのヴェトナムにいく決意をする。
サイゴン政府軍 ・・・ 1965年5月頃の南ヴェトナム政府軍に従軍取材したときの記録。当時はアメリカの「索敵壊滅」作戦と「戦略村」戦術が進行中。なので、攻勢意欲が激しく、残虐行為を随所で目撃する。いわく、捕虜へのリンチそして虐殺(首を切り裂くシーンをフィルムに収めたという)。南政府軍が解放戦線を射殺したあと、肝臓を抜いてみなで食べる(損壊された遺体写真がある)。これらの残虐行為は、解放戦線と北ヴェトナム政府軍の憎悪を生み、兵士へのリンチや虐殺が行われた。
戦争と民衆 ・・・ 村、町、市のいたる所で見ることになる戦争被害者。政府軍やアメリカ軍が出動すると兵士は退却するので、被害者は村に残る老人、女性、子供と幼児だった。
ベトナムの韓国軍 ・・・ 1967年。ヴェトナム戦争に参加したのは、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピン、タイ。なかでも韓国が派遣した軍隊はアメリカ軍の1割に相当する5万人(最大時)。彼らは解放戦線や捕虜に対して過酷で残虐であったことから、ヴェトナム人の憎悪を生んでいた。
市街戦 ・・・ 1968年5月。同年1月のテト攻勢のあとの第2次攻勢の記録。サイゴン市内に解放戦線が現れ、政府軍やアメリカ軍と銃撃戦になる。戦闘のある通りでは、一進一退の攻防をしていながら、一つ隔たった通りでは市場が開かれ、屋台で飯を売っているという奇妙な状況になっている。
ラオスカンボジアの戦闘 ・・・ 1970年。これらの国とヴェトナムの国境は山岳地帯で、深い森がその下の行動を隠している。当初から北ヴェトナムへの支援がこれらの国を経由して行なわれていた。ときに北爆の対象になることもあった。カンボジアは、シアヌーク殿下の帝政であったが、アメリカの支援を受けたとされるロン・ノルがクーデターで政権を掌握。そこで起きたことはカンボジア内にいたヴェトナム難民の虐殺。著者はこれを取材する。これがまた憎悪を呼び、ロン・ノル打倒の共産主義勢力が支持されるようになる。のちに虐殺国家を作ったクメール・ルージュ
北爆下のべトナム ・・・ 1973年パリの和平会談でアメリカ軍の撤退が決まった後、北ヴェトナムから西側諸国の報道関係者で希望するものに取材を許可した(それまでの約10年間は入国を拒否)。本多勝一記者などと入国して、ハノイ市と周辺を取材。立派な病院その他の公共施設、1964年後の経済成長を示す数値の提示、笑顔の市民、外国人記者に対して親切、物があふれる市場などに記者たちは感激する。今から思うと、経済成長はどこかの国の支援があったに違いないし、記者の取材範囲には制限があったから、彼らの見たのは取材用の街と民衆であったともいえる。


 おもにアメリカ軍に従軍しての戦闘と、サイゴン市やその周辺のルポ。基地を設けて昼間はその周辺の村を監視することはできても、夜になると解放戦線が暗躍する。待ち伏せや偵察をしても、効果はなく、むしろ少しずつ人が減っていく(死傷や傷病のため)恐怖が兵士にある。昼夜を問わない攻撃や待ち伏せや基地の補修で兵士は疲労の極。なるほど酒や麻薬に溺れていく心理もわからないでもない。その緊張が村人への残虐行為になって発散される。正義や大義のない戦争で、退廃が訪れるわけだな。
 それはまあ、市民や農民でも同じで、軍隊の攻撃で命を取られ、財産を破壊されても補償されず、傷病にあってもセイフティネットは機能していない。大量のアメリカの支援も村に届くまでにほとんどが「蒸発」するとなると、そこにも退廃や腐敗があったとしれる。それに対比すると解放戦線および北ヴェトナム共産党のモラルがすぐれてみえるのであるが、1975年の「解放」によって共産党の権力はやはり粛清となって現れるとなると、この戦争にはどこにモラルがあったのかと混乱することになる。たぶんその退廃や腐敗はそう簡単には払しょく、克服できるものではないらしく、報道管理の徹底した湾岸戦争イラク戦争アフガニスタン紛争でも同様な虐待、虐殺事件を起こしている(アメリカだけではなく、ソ連にもあった)。
 ここにはロバート・キャパの「ちょっとピンぼけ」にみられるユーモアが徹底的にかけている。それは兵士のユーモアが第2次大戦時とは格段にシュールでシニカルなものになったのもあるし(マーティン・バーク「戦争ですよ」晶文社)あたり)、戦場と後衛の区別がつかなく(サイゴン市内といえども銃撃にさらされる機会があるくらい)緊張しっぱなしというのもあるし、戦闘の残虐さが際立っているのもあるし。でも、たぶんヴェトナム人やアメリカ人ではない、戦争の当事者性のない「日本人」という立場が彼らの心理の襞に入り込み、ユーモアを救い出すことができなかったのではないかしら。危険になれば国外に脱出することが可能であるというのが、「兄弟」にしてくれなかったのではなかったかとおもう。そういえば、開高健沢田教一、一ノ瀬泰三などの従軍記録もユーモアがなかったな、せいぜいがシニカルな苦笑であったな、と思い出した。

2014/07/11 石川文洋「戦場カメラマン」(朝日文庫)-2