odd_hatchの読書ノート

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石川淳「狂風記」(集英社文庫)-2

2014/08/11 石川淳「狂風記」(集英社文庫)-1


 このように人々は現世の利得を図って物事を判断し、行動するのであるが、ごく少数が過去と歴史のうちにおのれを見出そうとする。すなわちマゴであり、ヒメである。マゴは流浪の身。誰を父とし、誰を母とするかを知らない。ただどこからか呼ぶ声に誘われて裾野に住み着き、歯を掘り当てようとする。その歯がなにものであるのか、なにをマゴに与えるかは知らない。そこに、同じく人と思われずに最底辺を這いずり回りしかしそれが心根を鍛えたと思しきヒメと会ったとき、欲望に意味が生じる。ヒメのもつ「市辺忍歯別命山陵考」なる古文書、およびその書き手である長野主膳の手記を読むにつれ、過去神代にイチノベノオシハノミコなる神とも人とも境の付かない人物がいた。身の丈は人に非ず、巨大人のそれであり、それゆえに殺された。その骨が埋められた。その力の不気味さに人々は骨の行方を捜したが、遥として知れない。という話を聞いて育ったヒメは、マゴこそイチノベノオシハノミコの再来となるを知る。おのれを何者とも知らない清らなる若者が、神意の降りる巫女と出会うことにより、自らの使命をしる。以来、マゴは裾野の王となり、シャベル変じて鉾を手にして裾野を掘り返す。掘り返しの運動の行く末は、地底の亡者、怨霊とであい、裾野のたましいに会うことに他ならない。
 もうひとり歴史に出会ったのが、ヤスキであり、彼は自身の放縦と乱脈の限りに美を見ていた。ところが、彼の数代前にあたる御前のさらに巨大な浪費と変態に度肝を抜かれるのである。なるほど女人を従えて、夜ごとに伽の相手を交換するのは決して珍しいことではない。山海の珍味と芳醇な酒を楽しむのも珍しいことではない。しかしその両方を一度に行い、なにしろ

「今宵の饗宴の仕上げには、いとしきものを祝福するために、これぞ歓楽の極致、最後の乾杯よと、臓服から流れ出た汚物をのこらず玉碗にそそがせられ、きびしく鼻を刺すにおいを甘露甘露とおよろこびあそばされて、これをぐっと一息に……(下巻P35-36)」

となるともういけない。もはや勝負は決した。「可能性の限界」を確かめようとする精神の前に、そのはるかな先まで突き抜けた理想を見せつけられ、己がそこに行く覇気をもたないとなると、精神は委縮し、ニヒルをまとうことになる。このとき、歴史はなんとも凶悪な存在になって、ヤスキの前に立つ。

 さて、物語は荒唐無稽、ご都合主義、破天荒、外連、豪華絢爛などさまざまな修飾を使ってほめそやすことができるのである。とはいえ、ポルノ、暴力、スカトロ、ホラーの描写はえぐく、読む人をたじろがせる。およそ虚弱な精神では読み進むのも困難であるのだろうが、その障害を乗り越えたうえで、文体の多彩さに驚くことになる。この小説の中にはさまざまな文書が登場する。たとえば、
ヒメのもつ「市辺忍歯別命山陵考」なる古文書(記紀代の擬古文)
長野主膳の手記(江戸時代のカナ文)
御前様の侍女が書いた書付(明治の女性の告白文)
ヒメのかく戯作調の手紙
新川眉子の書く現代女性の日記
鶴巻小吉と初吉の会話(雑誌の対談)
新聞三行広告
などなど。これらはいずれも文体を変えて、ときに読みづらくはあっても、その多彩さにまず酔うことになる。その克明な筆致と学識に驚こう。そのうえで、人物たちも異なる様々な文体を喋る。マゴは少年の屈託のない口語が、覚醒してからは厳かな荘重文になり、ヒメは一貫して姉御風。さち子とマヤはずべこうと接客用の女言葉を使い分け、新川眉子は秘書のビジネス会話とS風味の女王様風毒味のかかった女言葉。ヤスキの愚連隊の不良言葉はハツの太鼓持ちの自虐な言葉と対比をなし、桃屋と玉利はビジネス会話とどすの利いたやくざ言葉を使い分け、清家と小吉はインテリ風のスノッブな言葉を喋るだろう。大吉は当然武家の居丈高な命令口調でしかしゃべれない。それらの文体を、神のごとくなにもかも見透かしている作者の戯作とも翻訳調とも思え、似たような文体を思いつかないほど独特で、流れるようにいつまでも終わらないかに見え、あるいは短く切れ味鋭い文章が寸毫の狂いもなく、収めていく。なにしろ文体のポリフォニーを楽しむにしくはない。これだけの文体の使い分けを達成したということだけでも、この小説は傑作なのである。
2014/08/07 石川淳「狂風記」(集英社文庫)-3

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