2014/08/11 石川淳「狂風記」(集英社文庫)-1
2014/08/08 石川淳「狂風記」(集英社文庫)-2
作家の小説では、ある人物Aが登場すると、関係者(親子、夫婦、部下上司、幼馴染など)であるBが現れる。二人の話のあとには、Bの関係者であるCが登場。Cの関係者であるDが次に登場し…という具合に知り合いの知り合いの…の関係が続く。そういう相関関係で人の連なりが生まれていく。
人物は必ず誰かと関係を持っていて、遠い先のNがAの関係者(親子、夫婦、部下上司、幼馴染など)であることがしばしば。それが小説の途中で書かれる。ラストシーンになって、Nは実はAの関係者であったのだ、あるいはNはBの仕打ちに憤っていたのだということは起こらない。図にしないとだれがだれやらわからない。作家の小説を読むときは、人物の関係図を書きながら読むことを推奨。
探偵小説やサスペンスのドンデン返しを拒否している。それは人の関係だけではなくて、あらゆる出来事におよぶ。なにしろ日記を書いている人物の後ろには作者が控えていて、書くそばからそれを開示する。マンションに現金、宝石、ノートなどを隠していても、その記述の直後にはマンションに出入りしている人物が鍵開けの名人の手技をもっていて、即座にノートに書かれたことを読んでいる。死骸が裾野に放り出されても、人物たちがいぶかしがる数行後には作者がこの人物は云々というもので、こういう関係者がいると明かし、その情報はすぐさま登場人物全員に知れ渡っていて、死骸の名前と役職を疑う者はいない。
ようするに解かれない謎は、この作者の小説にはないのだ。すべては開示され、情報はみな同じく持っている。腹に一物を持っていたとしても、それはすぐさま言葉として発せられ、読者の前に明らかになる。秘密を忍ばせて復讐をたくらむ者はいない。
人物は関係の網目の結節点。さまざまな人物の関係にスイッチが入る(会話する、目撃する、うわさを聞くなど)ときに、認識と行動が発生する。説明をはしょれば、石川淳の長編には「主体」をもった思想的人物がいない。出来事はおこるべくしておこり、人々はスイッチに感応するだけ。そういう点で、これは近代の小説とは全然別物だなあ、と思う。
もうひとつ、この小説の場所の力はすごく強い。上のように、人間というのは表層しかなく、刺激に反応するだけのような(まあ、反応の仕方の多彩さが人間の多様性であり、物語の推進力を生むのかもしれないが)単純なあり方。に対して、裾野という汚わいと混沌に満ちて、亡者と怨霊が支配するこの広がり。ここに触れると、人間はもちろん、野犬、巨大な樹木に至るまで旺盛な活動力を示す(生命の力ではないよ、それこそ虚体の無の力だ)。宇宙樹のごとき巨大な樹木は冒頭と終幕の2回にしか現れないが、裾野の力のシンボル。ここをくぐり抜けることが、死と再生のイニシエーションになり、それまで800ページを費やした人間どもの右往左往がまるで足元の蟻の騒ぎのごとく卑小なものに見え、しかし、宇宙が立ち上るのを体験する。こういう魅力的で力の溢れた場所はめったにお目にかかれない。
そのような場所はことばによって発掘し獲得するしかないのであって、われわれはことばの優れた使い手にならねばならない。
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