odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

石川淳「おとしばなし」(集英社文庫)

 「おとしばなし」は昭和24年から昭和31年までのあいだに発表された。おとしはなしは歴史書の登場人物を肴におもしろき冒険をさせて、最後の一句で落ちをつけるとでも思いなせえ。


おとしばなし堯舜 1949.05 ・・・ 4000年もたって舜は豆腐専門店を作った。腕がないので、二人の嫁を接客に使ったが、これがおおあたり。しかし突然金を持ち逃げして、堯と兎に相談にいった。二人の嫁の行方はどこに。

おとしばなし李白 1949.06 ・・・ 李白が金丹でひっくりかえったというので、賀知章が探しに出た。戦後の安キャバレーみたいなところに入り浸っていて、しかも月に上るといっている。

おとしばなし和唐内 1950.06 ・・・ いくさをして手持ちのたりない和唐内は手下と雑芸の見世物を始めた。ライバルが出てきて打ちしおれるところ、ライバルの邯鄲が共同事業を持ちかけ、ついには世界に押して出るという話になった。

おとしばなし列子 1950.09 ・・・ 長屋住まいの列子のところに、逆さばかりの逢子が来て、華子も来た。酒でも飲むかと話はまとまったが、先立つものがない。そこで逢子の夢にはいって飲むことにしようということになった。

おとしばなし管仲 1950.12 ・・・ とらえられた管仲、首をはねられるかを思ったが、幼馴染の鮑叔、桓公を盛り立てる左大臣になってくれと言い出した。桓公は狩・酒・色を好んで、政治を顧みないのだが。

おとしばなし清盛 1951.11 ・・・ 要約不可能。平家物語を6畳間で演じて、だれもが吉本喜劇のコメディアンになったと思いなせえ。

おとしばなし業平 1956.11 ・・・ 今度は落語でお話しを。与太郎が業平なみの美男子と思い込んで、長屋の娘に恋したと思いなせえ。

 以下は有名童話のパロディ。先の3編は戦前、戦中でおとしばなしに似た趣向。あとのは少し後に書かれた。。
鉄枴 1942 ・・・ 宇宙の神秘を知る老賢者にあうために鉄枴はたましいをとばす。7日帰らなかったら、残る肉体を燃やせと言い残した。

張柏端 1941.10 ・・・ 仙人の張柏端、沓を盗られた。そこに当の本人の禅坊主が来て術比べをしようという。そこに作者の靴が盗まれた話が加わって。

曾呂利咄 1938.05 ・・・ 退屈する曾呂利を三成訪れて、近頃京を騒がす大盃の謎を解け、と命じた。講談か黄表紙か、なにしろ9ページ、ひとつしか読点(。)がねえ。

小公子 1951.06 ・・・ 場末の酒場で安焼酎を飲んでいる風来坊。酒場の親父が、あんた伯爵の息子じゃねえか、と問いただす。

蜜蜂の冒険 1952.01 ・・・ 都会にでてきた蜜蜂飼いのマーヤ、問われて答えるにみんなの幸福のために働くの、この剣はそのときにつかうものと叫ぶと、あたりの浮浪、のらくら、みんなして天に向かって駆け出す。

乞食王子 1952.08 ・・・ 乞食と王子を入れ替えたが老王が死に、遊戯は現実になり替わる。そのとき元王子でいまは乞食のエドワードは暁を目指す。

アルプスの少女 1952.11 ・・・ 「たった、クララが立った」の後日談。クララは元のフランクフルトに帰ろうとしたが、おりからの戦争に巻き込まれて。

白鳥物語 1953.04 ・・・ 「エルザと白鳥」の後日談。11羽の白鳥は人間になったが、イラクサの帷子は白鳥に残され、ヒキガエルは口をたたく。いずれも人間の知恵の毒気にあてられたらしい。

家なき子 1954.03 ・・・ 旅芸人ルミの道中記。おしのリーズをめぐる恋話の即興オペラ。

愛の妖精 1955.03 ・・・ 双子の兄弟ランドリとシルビネの物語。ランドリはファデットと結婚し、シルビネは相変わらずの独り者。今日は村の祭り。


 このようにサマリーを書いても意味ないな。10ページ足らずの短いものばかりだし、作家の芸を楽しむに限る。
 民話や童話を大人向けに書きなおすというのは、この時代よくあって、例えば星新一筒井康隆都筑道夫などにある。他にもたくさんあったのだろう。よくあるのは、民俗の世界を当時の都市文化に置き換えてみる「現代化」、性的な隠喩や象徴を読み取る「精神分析」的解釈、俗化した登場人物の後日談で幻滅させること、ミステリのごとく謎解きをする「再解釈」、あたり。たいていの趣向はでているので、これからトライする作家は大変そう。
 さて作家のものはこの種のパロディ、パスティーシュとしては最初期のものになるのかな(江戸期や明治のはおいておくとして)。上の分類にあたるのはたいていやっている。この人の場合、趣向の面白さや手際に目を見張るのではなくて、そこに書かれた教養に驚くことになる。なんで中国史と本朝史をこれほど詳しく知っているのだ、それが知識のひけらかしになっていなくて、さらっと歴史書の片隅に書かれているようなことを差し込んでおく。読者は後でそれを知って愕然、そういう具合か。
 あいにくぼんくらな読者である自分には作家のいう「精神の運動」というやつがいまひとつはっきりしない。堯舜や李白が昭和20年代バラック裏に住んでいても、気づかずに通り過ぎ、行ってしまったのを悔やむ仕儀になる。とりあえずは、それをとらえた作家の文章を読むくらいしかしようがない。