1952年。バトル・オブ・ブリテンに参加しBBCにコネのある青年(32歳だけど)のビル・ドーソンはアメリカで行き詰まっていた。フィアンセには振られ、勉学したものの職はなく、文無しだった。ある弁護士の呼び出しをうけると、前の客の話が聞こえる。なぜか、姿に声の似ている富豪の御曹司が帰国するのをためらっている。その身代わりになって半年間イギリスに帰ってくれないかと依頼された。前祝いを挙げる居酒屋で、その御曹司ラリーは青酸カリで殺され、ラリーのフィアンセ・ジョイは姿を消す。どたばたのすえにイギリス行飛行機に乗り込むと、振られたフィアンセ・マージョリが乗り合わせていた。
この本の売りは、あなたの推測しそうなことは間違いですよと脚注にあること。その数合計九つ。ミステリを読みなれているものには、このような「読者への挑戦」には敏感に反応するだろう。とはいえ、これは「館もの」「舞台もの」「学校もの」「閉ざされた山荘」などのよくある設定ではない。そこははぐらかして、御曹司の伯父ゲイロードが皮肉屋でいたずら好きで吝嗇で権威主義者であり、初対面でいきなり半年以内に貴様を殺すと公言する。すなわち、思いもかけず殺人ゲームに参加することになり、知恵でもって、この奸智から逃れなければならない。ゲイロードにはハットーという元レスラーの召使がいて、ゲイの命令であれば「おしおき」するのを躊躇しない(主人公が最初の戦いで敗れ、2回目で雪辱するのは冒険小説の作法ですなあ)。
さて、脚注の九つの間違った答え(Nine Wrong Ansewerが原題)を並べておくか。あわせてサマリも追加。
1)ビル・ドーソンが巻き込まれたのは共同謀議ではない。
2)ラリーの死(上の居酒屋での毒殺)は偽装ではない。
3)ゲイロードとハットーは親切ではない。(ゲイロードとハットーの憎々しい人物描写はみごと。これほどイヤな悪役はカーには珍しいのではないかなあ。ゲイロードのもちかけるのは「猫と鼠ごっこ(P239)」というので、のちの同名作を思い出そう。)
4)マージョリはアンバシー弁護士の姿なき秘書ミス・ヴェントナーではない。(飛行機でマージョリが現れた時)
最初にゲイロードを訪問したとき、マージョリをジョイを偽って同席させた。ラリーのいうとおりゲイロードは嫌なやつ。そこにジョイが現れホテルで同室したことを暴露するわ、ゲイロードは3か月以内に「貴様を殺す」と言い出すわ、ハットーの「おしおき」でめげそうになるわと散々な目に合う。
5)ビルはマージョリ一筋で、ジョイを愛したことはない。
6)ビルに起きていることは複数人による共同謀議ではない。
指定されたアパートに行くと、向かいの部屋には監視しているのがいるし、隣室には得体のしれないサラリーマンがいるし。マージョリは実は婚約を解消していたのだが、元フィアンセはBBCのプロデューサー。話をしたいというと、ハットーが先回りして空気銃で銃殺しようとする。それを回避する方法がスマートで、しかも祝祭的。しかしタイプライタに仕掛けた毒で3日間ビリは昏睡。2回目の訪問で、ビルはボクシングでもってハットーを叩きのめし、激高したゲイは24時間以内に殺すと宣言。時間切れ直前にゲイの屋敷に忍び込むと、ゲイは殺されていた。青酸カリを飲んだ毒殺で、ビルの指紋のついたグラスが置いてある。
7)ゲイロードは自殺ではない。
そのうえ、警察が張り込んでいたので、ビルは屋敷を逃げ出し、親友ロニー・ウェントワースを呼び出して、折からのシャーロック・ホームズ展に隠れることにした。
8)ロニー・ウェントワースは犯人ではない。
そこには真犯人が先回りして潜んでいる。しばらくすると警官も到着するだろう。この危機において、ビルは知恵を発揮し、九つの正しい答えを説明する。なるほど、前半の冒険小説、後半の殺人ゲームで繰り広げられるアクションで忘れてしまったことが「事件」に重要にかかわってくるのだなあ。とりわけ冒頭の事件が異様だったことは忘却の彼方だったわ(そのための400ページ超の分厚さか。この長さに匹敵するのは「アラビアンナイトの殺人」「ビロードの悪魔」くらい)。
正調冒険小説であって、「二都物語」「ゼンダ城の虜」「紅はこべ」などのイギリス冒険小説の末裔。ヒッチコックばりの素人巻き込まれ型サスペンスなのです。そこのところで「九つの間違った答え」を期待する本格探偵小説愛好家に肩透かしを喰らわせた。どうやらこの作品の低評価はそのあたりにあるのかな(文庫に落ちていないものねえ)。
とはいえ第2次大戦を経験してしまうと「現代」を舞台にした冒険小説は、このくらいにリアリズムで書こうとすると、時代と齟齬を生じるのでどうにも書きようがない。そこで冒険小説は歴史小説でやるようになった、というのがカーの軌跡だろう(現代で冒険小説をやろうとするのがスパイ小説なのだろう)。ビルがプロ級のボクサーというのは、「火よ、燃えろ」「ビロードの悪魔」のフェンシング達人に伝承されているだろうし。
さて、最後の間違った答えはここには書かない。いやあそういうやりかたでしたか。まいったまいった。あとで都筑道夫「七十五羽の烏」、倉地淳「星降り山荘の殺人」で似た試みをしているけど、「九つの答」に触発されてのことかな。ふたりとも言及していないけど。
ジョン・ディクスン・カー「夜歩く」→ https://amzn.to/4braSPq https://amzn.to/3WAHDWh
ジョン・ディクスン・カー「髑髏城」→ https://amzn.to/3Uzj2Pc https://amzn.to/3WvXaa1
ジョン・ディクスン・カー「絞首台の謎」→ https://amzn.to/3Wv3CxX
ジョン・ディクスン・カー「蝋人形館の殺人」→ https://amzn.to/3JRiXRY
ジョン・ディクスン・カー「毒のたわむれ」→ https://amzn.to/3USvVoE
ジョン・ディクスン・カー「魔女の隠れ家」→ https://amzn.to/3UTxKlm
ジョン・ディクスン・カー「帽子収集狂事件」→ https://amzn.to/4b8UeEx https://amzn.to/4bxpbCk https://amzn.to/4dCerUT
ジョン・ディクスン・カー「剣の八」→ https://amzn.to/3ycSGLr https://amzn.to/4bd6wvC
ジョン・ディクスン・カー「死時計」→ https://amzn.to/4b8TQpO
ジョン・ディクスン・カー「盲目の理髪師」→ https://amzn.to/3UDqMiW https://amzn.to/3wEPjw2
カーター・ディクスン「白い僧院の殺人」→ https://amzn.to/3ydX4K2 https://amzn.to/4bAvwwV
カーター・ディクスン「プレーグコートの殺人」→ https://amzn.to/3JUW7sz https://amzn.to/3JRjof4
カーター・ディクスン「赤後家の殺人」→ https://amzn.to/3Wzf9w2
ジョン・ディクスン・カー「三つの棺」→ https://amzn.to/3USgMng
カーター・ディクスン「パンチとジュディ」→ https://amzn.to/3WAdjuZ https://amzn.to/3ygtpQn
ジョン・ディクスン・カー「アラビアンナイトの殺人」→ https://amzn.to/3JUWh39 https://amzn.to/3WvY1Yh https://amzn.to/3JS7bXo
ジョン・ディクスン・カー「四つの凶器」→ https://amzn.to/3QDVNlY https://amzn.to/3ydTTls
ジョン・ディクスン・カー「火刑法廷」→ https://amzn.to/3UUOVlx https://amzn.to/3UQKqJN
ジョン・ディクスン・カー「曲った蝶番」→ https://amzn.to/4dBKq7G https://amzn.to/4dA0JSv https://amzn.to/3UQK6L5
カーター・ディクスン「ユダの窓」→ https://amzn.to/4dAq5Qk
ジョン・ディクスン・カー「死者はよみがえる」→ https://amzn.to/4bvLjNh
ジョン・ディクスン・カー「テニスコートの謎」→ https://amzn.to/3ybaINY
カーター・ディクスン「読者よ欺かれるなかれ」→
カーター・ディクスン「五つの箱の死」→ https://amzn.to/3wxhcX1 https://amzn.to/3WATnrV
ジョン・ディクスン・カー「震えない男」→ https://amzn.to/3ws17lq https://amzn.to/44CtkCH
ジョン・ディクスン・カー「カー短編集 1」→ https://amzn.to/3JWFJIg
ジョン・ディクスン・カー「猫と鼠の殺人」→ https://amzn.to/3WBnyiG
ジョン・ディクスン・カー「連続殺人事件」→ https://amzn.to/3QGovlX https://amzn.to/44y9AAb
ジョン・ディクスン・カー「皇帝のかぎ煙草入れ」→ https://amzn.to/4bvLiJd https://amzn.to/3wl51fY https://amzn.to/3WBcmmm
カーター・ディクスン「貴婦人として死す」→ https://amzn.to/4dMRGhp https://amzn.to/3QCLWwu https://amzn.to/3QDE0LC
カーター・ディクスン「爬虫類館の殺人」→ https://amzn.to/3Wv49Qt https://amzn.to/4bxblzW
カーター・ディクスン「青ひげの花嫁」→ https://amzn.to/4bvWgOZ
ジョン・ディクスン・カー「囁く影」→ https://amzn.to/3UTuPsZ
ジョン・ディクスン・カー「カー短編集 2」→ https://amzn.to/4bAd5IF
ジョン・ディクスン・カー「眠れるスフィンクス」→ https://amzn.to/4bdcbSq
ジョン・ディクスン・カー「疑惑の影」→ https://amzn.to/4bb7o3V
カーター・ディクスン「墓場貸します」→ https://amzn.to/3JVNwpB
ジョン・ディクスン・カー「ニューゲイトの花嫁」→ https://amzn.to/4adJtzt
カーター・ディクスン「赤い鎧戸の影で」→ https://amzn.to/3QDS1sw
ジョン・ディクスン・カー「九つの答」→ https://amzn.to/3yf9j9d
カーター・ディクスン「騎士の盃」→ https://amzn.to/3wxhgGf
ジョン・ディクスン・カー「カー短編集 3」→ https://amzn.to/4bv5n2u
ジョン・ディクスン・カー「喉切り隊長」→ https://amzn.to/3ygt3t1
ジョン・ディクスン・カー「バトラー弁護に立つ」→ https://amzn.to/4btt3UO
ジョン・ディクスン・カー「火よ! 燃えろ」→ https://amzn.to/3yf7ZmN
ジョン・ディクスン・カー「死者のノック」→ https://amzn.to/4afT0WM
ジョン・ディクスン・カー「ハイチムニー荘の醜聞」→ https://amzn.to/3URgFZo
ジョン・ディクスン・カー「ビロードの悪魔」→ https://amzn.to/4b1Xwtj
ジョン・ディクスン・カー「ロンドン橋が落ちる」→ https://amzn.to/4dA3B1D
ジョン・ディクスン・カー「死の館の謎」→ https://amzn.to/44Aj3a0