odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

ジョン・ディクスン・カー「九つの答」(ハヤカワポケットミステリ) 文無しイギリス人が殺人ゲームに巻き込まれるチェイス&アドヴェンチャー。作者が言う間違った答も真相隠しのトリック。

 1952年。バトル・オブ・ブリテンに参加しBBCにコネのある青年(32歳だけど)のビル・ドーソンはアメリカで行き詰まっていた。フィアンセには振られ、勉学したものの職はなく、文無しだった。ある弁護士の呼び出しをうけると、前の客の話が聞こえる。なぜか、姿に声の似ている富豪の御曹司が帰国するのをためらっている。その身代わりになって半年間イギリスに帰ってくれないかと依頼された。前祝いを挙げる居酒屋で、その御曹司ラリーは青酸カリで殺され、ラリーのフィアンセ・ジョイは姿を消す。どたばたのすえにイギリス行飛行機に乗り込むと、振られたフィアンセ・マージョリが乗り合わせていた。

 この本の売りは、あなたの推測しそうなことは間違いですよと脚注にあること。その数合計九つ。ミステリを読みなれているものには、このような「読者への挑戦」には敏感に反応するだろう。とはいえ、これは「館もの」「舞台もの」「学校もの」「閉ざされた山荘」などのよくある設定ではない。そこははぐらかして、御曹司の伯父ゲイロードが皮肉屋でいたずら好きで吝嗇で権威主義者であり、初対面でいきなり半年以内に貴様を殺すと公言する。すなわち、思いもかけず殺人ゲームに参加することになり、知恵でもって、この奸智から逃れなければならない。ゲイロードにはハットーという元レスラーの召使がいて、ゲイの命令であれば「おしおき」するのを躊躇しない(主人公が最初の戦いで敗れ、2回目で雪辱するのは冒険小説の作法ですなあ)。
 さて、脚注の九つの間違った答え(Nine Wrong Ansewerが原題)を並べておくか。あわせてサマリも追加。
1)ビル・ドーソンが巻き込まれたのは共同謀議ではない。
2)ラリーの死(上の居酒屋での毒殺)は偽装ではない。
3)ゲイロードとハットーは親切ではない。(ゲイロードとハットーの憎々しい人物描写はみごと。これほどイヤな悪役はカーには珍しいのではないかなあ。ゲイロードのもちかけるのは「猫と鼠ごっこ(P239)」というので、のちの同名作を思い出そう。)
4)マージョリはアンバシー弁護士の姿なき秘書ミス・ヴェントナーではない。(飛行機でマージョリが現れた時)
 最初にゲイロードを訪問したとき、マージョリをジョイを偽って同席させた。ラリーのいうとおりゲイロードは嫌なやつ。そこにジョイが現れホテルで同室したことを暴露するわ、ゲイロードは3か月以内に「貴様を殺す」と言い出すわ、ハットーの「おしおき」でめげそうになるわと散々な目に合う。
5)ビルはマージョリ一筋で、ジョイを愛したことはない。
6)ビルに起きていることは複数人による共同謀議ではない。
 指定されたアパートに行くと、向かいの部屋には監視しているのがいるし、隣室には得体のしれないサラリーマンがいるし。マージョリは実は婚約を解消していたのだが、元フィアンセはBBCのプロデューサー。話をしたいというと、ハットーが先回りして空気銃で銃殺しようとする。それを回避する方法がスマートで、しかも祝祭的。しかしタイプライタに仕掛けた毒で3日間ビリは昏睡。2回目の訪問で、ビルはボクシングでもってハットーを叩きのめし、激高したゲイは24時間以内に殺すと宣言。時間切れ直前にゲイの屋敷に忍び込むと、ゲイは殺されていた。青酸カリを飲んだ毒殺で、ビルの指紋のついたグラスが置いてある。
7)ゲイロードは自殺ではない。
 そのうえ、警察が張り込んでいたので、ビルは屋敷を逃げ出し、親友ロニー・ウェントワースを呼び出して、折からのシャーロック・ホームズ展に隠れることにした。
8)ロニー・ウェントワースは犯人ではない。
 そこには真犯人が先回りして潜んでいる。しばらくすると警官も到着するだろう。この危機において、ビルは知恵を発揮し、九つの正しい答えを説明する。なるほど、前半の冒険小説、後半の殺人ゲームで繰り広げられるアクションで忘れてしまったことが「事件」に重要にかかわってくるのだなあ。とりわけ冒頭の事件が異様だったことは忘却の彼方だったわ(そのための400ページ超の分厚さか。この長さに匹敵するのは「アラビアンナイトの殺人」「ビロードの悪魔」くらい)。
 正調冒険小説であって、「二都物語」「ゼンダ城の虜」「紅はこべ」などのイギリス冒険小説の末裔。ヒッチコックばりの素人巻き込まれ型サスペンスなのです。そこのところで「九つの間違った答え」を期待する本格探偵小説愛好家に肩透かしを喰らわせた。どうやらこの作品の低評価はそのあたりにあるのかな(文庫に落ちていないものねえ)。
 とはいえ第2次大戦を経験してしまうと「現代」を舞台にした冒険小説は、このくらいにリアリズムで書こうとすると、時代と齟齬を生じるのでどうにも書きようがない。そこで冒険小説は歴史小説でやるようになった、というのがカーの軌跡だろう(現代で冒険小説をやろうとするのがスパイ小説なのだろう)。ビルがプロ級のボクサーというのは、「火よ、燃えろ」「ビロードの悪魔」のフェンシング達人に伝承されているだろうし。
 さて、最後の間違った答えはここには書かない。いやあそういうやりかたでしたか。まいったまいった。あとで都筑道夫「七十五羽の烏」、倉地淳「星降り山荘の殺人」で似た試みをしているけど、「九つの答」に触発されてのことかな。ふたりとも言及していないけど。