odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

ジョン・ディクスン・カー「ニューゲイトの花嫁」(ハヤカワ文庫)

 1815年のロンドン。ニューゲイトの監獄には、あるフェンシング教師が囚われ、今日にも死刑が執行されるはずであった。彼は数か月前の夜、なにものかに襲われ、貴族にして高利貸しが殺された現場に軟禁されていたのであった。あらゆる申し立ては平民の罪を軽くすることはできず、教誨師におのれの不運と無実を語るのみ。
 一方、貴族は財産相続の遺言を型どおりに守るために、死刑囚と結婚するという奇妙な風習があった。慣用法の世界では合法である。フェンシング教師であるロバートには教誨師とともに、そのような貴族の娘とその付き添いがきていた。看守の同席で結婚の儀が相成ったのち、突如ロバートに莫大な遺産と男爵の爵位が転がり込むという奇運が訪れる。そしてこの一丈夫ロバートはおのれの罪と監獄で辱めを受けた高慢な貴族への復讐を胸に、ロンドンの街に立ったのであった。

 すこし大時代な書き方をしたけれど、設定からストーリーまで、まるでこの国の伝奇小説、歴史小説をみているよう。なるほど150年前のことを書くとなると(初出は1950年)、すこしばかり古風な物語にすることになるのだろう。ロバートは主人公に選らばれただけあって、フェンシングの優れた選手であるばかりでなく、射撃の腕前は軍人を凌駕し、莫大な金を惜しみなく使い、レディの視線を一人で集める好男子。彼の小粋でスマートな立ち振る舞いに感情移入できるようになると、読者は現実の憂さを忘れることができる。
 そこに、なんとも憎々しい悪役(神経質で居丈高で暴力行為を好み、女にだらしなく、賭博の腕が立ち、しかも高位高官の息子でうかつに手を出すとけがをしかねない)を置く。牢獄でロバートを辱め、爵位が上とわかると決闘を申し込むという次第。前半はこの悪役との葛藤が主題。いいねえ、悪役が悪をふるまうほどに、決闘シーンが盛り上がり、もはやこれまでと思うシーンで逆襲に転じるところなぞ胸がすっとする。
 あとは、好男子に二人の女性を配置し、一人はドルリー・レーン劇場の踊り子で明日をも知れない薄幸の美少女。もうひとりは上記の高慢でつんと澄ました貴族の娘。ロバートは二人の間を揺れ動く。心を通じたい美少女は彼から離れようとし、高慢な娘は次第に魅かれていく。娘が入浴中にロバートが浴室に侵入するという濡れ場も用意し、このロマンスの行方も予断を許さない。ラストシーンもロマンスものの典型で、美しくきまっている。
 さて、悪役貴族に決闘でうっぷんを晴らしたとはいえ、ロバートには危機が訪れる。すなわち屋敷で娘と角突きあわせているさなかの銃撃であり、コヴェント・ガーデン劇場で仕組まれたボクシング選手らによる襲撃である。なぜかロバートに瓜二つの顔を持つ心涼やかな貴族が彼を助けるわ、アル中気味の老弁護士は貴族兼高利貸しの殺人事件に興味を持つわ(事件の舞台になった部屋が翌日には2年間分の汚れがたまっていたという不思議)、盗賊上がりの警吏(まだ警察制度はない)が事件の再調査をするわ、と錯綜した状況が続き、読者はかたずをのんで読み進むしかない。そうそう薄幸の美少女ドリーの容体がしだいに悪化し、死の直前に美を取り戻すというのも常道ではあるが、心憎いテクニック。こういう時代ものだと、不可能犯罪の解明はあっさりしたものになるが、ここではなかなか健闘。機械をつかうわけにはいかないので、心理の錯誤によるが、仕掛けはモーリス・ルブラン風。それもこの時代と作品にはあっている。
 快漢ロバートの冒険、娘とのロマンス、不可能犯罪の謎解きと3つの物語を読めるという贅沢な読書。スピーディな展開はこの種の作でも稀有ではないかな。

※ コヴェント・ガーデン劇場で起きた襲撃・乱闘事件は、史実とのこと。上演されていたオペラ「プロセルピナの誘拐」はベルリーニの作で、「「プロセルピナの略奪」のほうで名が通っている。