2017/01/25 大江健三郎「日常生活の冒険」(新潮文庫)-1 1964年の続き。
孤独で悲惨な現代生活。周りは高度経済成長で仕事にはげめば高収入が得られ、およそ20年前の敗戦とその後の窮乏から抜け出せる。この小説が書かれた1964年はそのような気分があったころ。この小説でも斉木のグループにいながらも、輸入雑貨店の店員から店長に出世し、如才ない世間知を身に着けて、斉木らのような自由人を馬鹿にする雉子彦のような人物が出てくる。雉子彦は当時の「大衆」「群集」の典型になるのだろう。しかし、この高度経済成長はすべての人を公正に豊かにしたわけではない。そこから漏れた少数者がいた。それが金奏のような在日朝鮮人であり、暁のような被曝者(前者は大島渚「忘れられた皇軍」1963年に描かれたし、後者は著者の「ヒロシマ・ノート」1965年を参照)。彼らマイノリティの問題は、この小説の主題ではないが、ちゃんと掬い取って時代との関係で読み取ることは必要。斉木にしろ「ぼく」にしろ彼らへの共感は薄くて、マイノリティの問題は彼ら個人の枠でどうにかすることになってしまったが。
さて、この小説のほとんどの登場人物は25歳以下。下は18歳。まあ、「青春」と呼ばれるような年齢にあるものだ。自分の経験を持って振り替えれば、この年齢のとき、社会とか共同体とかのかかわりは薄く、責任が問われない代わりに、期待もされない。自我や主体の意識は生成途中。誇るものが若さとか体力であって、考えは狭く、観念的になりやすい。そういう「青春」のもろさや浅はかさがうまく描かれていると思う。斉木は結局25歳で自死を遂げるわけだが、25歳を超えて「大人」になるステップで頓挫したといえるか。「なにひとつやりとげなかったなあ」という斉木の述懐は「青春」の危機の乗り越えの失敗になるのだよなあ。他の連中も同じく「青春」の危機の乗り越えの失敗に見えて、それが物悲しい。とはいえ、日常生活の繰り返しや共同体のしがらみで単調になる生活に飽き足らないのも、読者には共感できることであり、彼らくらいは脱出してほしいと願ったのだが。「冒険」はかくも困難であり、ときに冒険者自身の生を奪うこともあるとすると、斉木の未完成の生涯はなるほど「冒険」であったのだろう。
とはいえ、斉木は「自力本願ではなく、女性への他力本願」の生活のすえに、恐怖の泥沼のような生活で自己破壊にいたったのだが、似たような状況にある語り手「ぼく」の「青春」の乗り越えはこの小説では完了していない。むしろM.M.との結婚の失敗のすえにアフリカ(北アルジェリアのブージー)で自死した斉木の期待を自分のものにしようとする。とはいえ、いいなずけと結婚し、長編小説を書き下ろす約束をしてしまった「ぼく」は生活としがらみに絡み取られながらも、ヒポコンデリアはそのまま継続している。となると、この乗り越えはもう一度「ぼく」自身が試まなければならず、その顛末が「個人的な体験」になるのか。そこでは生活としがらみのうえに、頭に障害を持った子供の誕生という問題も抱え、さらなる泥地をあるかねばならない。バードが夢見るアフリカには斉木のような「日常生活の冒険」の墓標があるのだ。
ちなみに「ぼく」には自殺した父がいて、自分も自死する可能性を否定できず、祖父の弟はアメリカに移住してそのまま行方不明になっているのでもある。「ぼく」の一族には西南戦争に「遅れてきた青年」でありその後四国の村で成功した祖父のようなヒーローと、自死した父や行方不明になった祖父の弟のような反ヒーローもいる。一族の歴史もまた「ぼく」のオブセッションであり、過去もまた精算しなければならない。ここらは「万延元年のフットボール」の鷹四や「同時代ゲーム」の語り手「ぼく」にも引き継がれる問題となっている。
初読の時は斉木というみっともないヒーローの「冒険」に引き寄せられたが、初老の再読では書斎にこもりがちの「ぼく」の困難の乗り越えに興味を持った。