odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

佐藤忠男「黒澤明の世界」(朝日文庫)

 1969年の初出。そのあとに制作された映画の論評を加えて、1986年に文庫化。黒沢監督はその後も映画の製作をつづけたので、「夢」「八月の狂詩曲」「まあだだよ」には触れていない。1990年以降の製作作品は、「黒澤明作品解題」(岩波現代文庫)で言及しているので、そちらを参照(ついでだが、岩波同時代ライブラリーに「黒澤明解題」というのがあって、これは1990年に出た。当然、1990年代制作の映画は触れていないので、注意すること)。

 1980年代にVHSビデオが普及して、自宅のテレビで映画を見ることができるようになった。時間をとれないサラリーマンや金のない学生には大いに便利になった。でも、著作権者の意向があったのか、黒澤明の映画がビデオ化されるのは遅く、もちろん監督の意向でテレビの放送もなかった。当時のテレビは20インチ前後。シネスコサイズの映画は両端を切るか、圧縮してテレビサイズにした。画面のサイズにこだわる監督はどちらの処理も拒否したので、なかなか放送されない。ときに放送するときは、画面の上下を黒くして、画面のすべてが映るようにした。若い映画ファンが監督の映画の情報を得るには、このような本しかない。黒沢監督の情報や評論を入手するには、当時、この文庫本は便利だった。なので、昭和から平成にかわるころに、まとめてビデオ化されたときに、この本を片手にレンタルビデオを借りてきて、テレビ画面をみたのであった。
 ここでは著者がどのように映画を評価しているかというところに注目。そうすると、
・監督の主張や思想が明確に表現されていることが重要。その主張は、人民の意識を高めるとか、社会悪の摘出とその乗り越えを提起しているほどよい。制作時の社会問題との関係が明確であるとよい。「我が青春に悔いなし」「生きる」「生きものの記録」が高評価なのはそういう理由。
・社会や共同体で埋没しがちな視聴者の意識を高揚させ、社会参加や変革の志を持つ自立した、主張のある個人を造形するのがよい。上記の八木原幸枝(原節子)とか、渡辺勘治(志村喬)、「生きものの記録」の中島喜一(三船敏郎)など。
・とはいえ超人的な力を持つ主人公が人々や社会の正義を無視してわがままにふるまうのはちょっとごめん。「用心棒」「椿三十郎」のタイトルロールや「天国と地獄」の戸倉警部など。
・彼らのすごさというか超人性をきわだたせるために、人民の意志や行動力を弱く描くのはどうかしら。「七人の侍」の農民とか、「どん底」「どですかでん」の貧乏人たち。
・技術や表現力には敬意を払うが、監督がそれにこだわり、主張や思想の提示が弱いのはあまり評価できない。「蜘蛛巣城」「影武者」「乱」
 だいたいこんな風なみかたにまとめられるかな。近い立場は自然主義リアリズム。市民的自由と民主主義の獲得のために社会悪の告発と社会参加の啓蒙をするのが芸術の役割だ、という見方。1960年代のユーモアもわからないわけではないがそれより「正義」と権力の問題に目を向けようという立場。おおよそこんな感じのまとめになる。
 今となると、しゃっちょこばったの見方で、これだと見落とされるものが多いし(上のユーモアとか編集技術とか)、芸術に政治的志向を要求するのも偏狭な見方になると思う。ストーリーと主題と人物造形に注目するのは、たぶんに文学的。著者のような映画の見方からはバラージュの見つけたクロース・アップされた顔とか、エイゼンシュタインモンタージュなどは見つからないよね。それに、あるシーンとかシークエンスが物語とかメッセージとか人物の個性なんかとは別にみるものに強烈な印象をもたらすのが見えなくなる。たとえば「七人の侍」のぬかるみに足をとられてずっこける農民とか、「椿三十郎」の切られた俵から白米がずっと零れ落ちているシーンとか、「白痴」の雪に埋もれた電車駅とか道路とか、「天国と地獄」の米兵向け飯屋の品書きとか。こういうリストは映画好きそれぞれが個人的に大事にしていると思うが、著者の方法だとそういう記憶は無視されるよなあ。
 黒澤映画にある説教くささとか師弟関係の押しつけみたいなのが、最近の自分に合わなくなっているように、この評論もまたあわなくなってしまった。