溝口健二を紹介すると、1898年生まれ。1920年(大正9年)に日活向島撮影所に入社。24歳にして映画監督デビュー。当時は無声映画。のちに松竹や大映に移った。死去の直前には大映の取締役に就任。ずっと継続して映画監督を続ける。代表作は「滝の白糸」「浪華悲歌」「祇園の姉妹」「残菊物語」「浪花女」「女優須磨子の恋」「夜の女たち」「雪夫人絵図」「お遊さま」「西鶴一代女」「雨月物語」「山椒大夫」「近松物語」「大阪物語」(この本の章のタイトルになったものをあげた)。1954年、急性白血病で死去。長回し、ワンシーンワンカット、綿密な時代考証、厳格な芝居、あたりが特徴。ヌーベルバーグの監督が激賞し、この国の映画監督としては最も知られている人の一人(あと黒澤明、小津安二郎、成瀬巳喜男になるのかな)。
えらく無味乾燥なまとめになったのは、彼に最も近しい仕事仲間である著者にしても、とくに憎悪を買うような厳格さ(というか理不尽な怒り)を要求し、毒舌を吐き、人を怒らせ、わがままを言い、人を自分のいいなりにさせ、自分の失敗や過失を認めず、思うままにならないときには駄々をこね、怒りを発散する。その種の怒りや攻撃はしばらく収まらず、翌日まで持ち越すことも多かったそうな。詳細はwikiに詳しい。そういう暴君のエピソードが、どうにも苦手なので。こういう人と仕事をすると苦労することだろう。たいてい、人は離れるものだが、溝口の場合、出来上がった映画が素晴らしいものだから(ついでに興行収入をたくさん獲得できるヒット作品を作ったから)、彼の性格や行動パターンに苦り切っていてもいっしょに仕事を続けることになる。お疲れ様でございます。
溝口健二 - Wikipedia
ネットをうろついていたら、大島渚が溝口健二を表している言葉を見つけた。
「小津さんは自分の好みの中でしか仕事をしなかった。その上、好みを自分で知りぬいていた。だから幸福だったでしょう。 しかし、溝口さんは一生自分がなにをやりたいかもわからず、ただ、無茶苦茶に頑張った。 苦しい一生だったと思います」
大島は松竹に入って、昔からの職人映画監督を罵倒し、上層部と喧嘩して退職した人。仕事ぶりをよく聞くことがあっただろうから、こういう発言になったのだろうな。
ああ、似たような暴君ぶりで、熱烈なファンがついている一方、部下からは毛嫌いされている人を思い出した。指揮者ジョージ・セル。セルの仕事(CDのみだけど)をみても、仕事の成果と作り手の人格は別物であるということに留意しないといけないな。こういうパーソナリティだからこの人の仕事は素晴らしい(あるいはダメ)とか、仕事の結果はこの人のパーソナリティに由来するとか、こういう物言いは何も言っていない。
自分は「雨月物語」しか見ていないので、監督の仕事の評価云々はおいておくことになり、この本はこの国の映画の黄金時代の記録として読むことになった。これとマキノ雅弘「映画渡世」(角川文庫)、竹中労「鞍馬天狗のおじさんは」(白川書院)といっしょによむと、戦前の京都の撮影所の雰囲気が彷彿するのじゃないかな。