この本の記載にそって簡単に映画史をおさらいすると、なんといっても映画の「本場」はアメリカ・ハリウッド。ここの全盛期は1930-40年代。で、戦後にその他の国の映画が相互に交換、上映されると、ハリウッドとは違った映画に衝撃を受ける人がでた。1940年代後半だとイタリア、1950年代だと日本とポーランドの映画かな。それをみて、かつハリウッドの映画を見まくったフランスの青年が、助監督経験を経ないで映画の監督に乗り出した。すると、ハリウッドのギャング映画、犯罪映画に各国の映画のセンス(そして新しい音楽)をとりいれた斬新な映画を次々と作り出した。ゴダール、トリュフォー、リヴェット、ロメール、レネ、マルなど。彼らの映画にはじつのところ共通点はそんなにないけど、出自が似ているということで「ヌーヴェル・ヴァーグ」と命名された。それが1950年代後半。
というまとめをしたうえで、では1960年代の映画はどうだったかを概観したのが、1971年刊行のこの新書。
日本では、大島渚、吉田喜重、今村昌平などの松竹出身の若い監督とアートシアターギルドの活動、ドキュメンタリの羽仁進、小川伸介、土本典昭などに注目。アメリカだと、アーサー・ペン、マイク・ニコルズ、ジョージ・ロイ・ヒルなどの「ニュー・シネマ」。中南米の映画も面白い。というのが、著者のみた1960年代の映画の状況。
無理にヌーヴェル・ヴァーグとの共通点をあげるとすると、
・モンタージュ、カットバックなどの既存の映画手法の見直し
・性的、政治的問題への関心、ときには観客との共闘の模索
・異化効果や想像力の手法
あたりになるだろうかな。
じつのところ、ここに取り上げられた映画を自分は全部を見たわけではないし、今となっては大資本の制作したものを除いてはほとんど見るのが困難(とりわけ新左翼や学生運動のドキュメンタリーはまずみれない。「怒りをうたえ」や「圧殺の森」は四半世紀以上見直していないのでもう一度見直したいのだ)。なので、個々の作品評価は保留。とはいえ、書かれてさらに数十年を経過した2013年からすると、エアポケットみたいに空白になっているみたい。1950−60年代は「ゲンダイオンガク」がもっともとんがっていた時代で、表現や方法の実験が盛んに行われていた。それに熱狂する人々もいたけれど、どうも観客の都合をおいてしまったので、いまとなっては鑑賞するのが辛くなってねえ。それと同じ感想をこの時代の映画にも持つようになった。
自分もこの著書にでてくる監督たちの作品を見るより、同時代に濫作されたプログラムピクチャー(「眠狂四朗」「座頭市」「女賭博師」など)を楽しむようになってしまったからねえ。
・著者は1930年生まれなので、当時40歳。ヌーヴェル・ヴァーグやそのあとの1960年代の映画を主導した人たちもほぼ同世代。ちょうど巨匠が沈黙、死去する世代交代の進行中で、彼らに対する同士意識というのはあったのではないかな。著者には「大島渚の世界」(朝日文庫)があるくらいにシンパシーが強い。
・この時代は、新左翼や学生運動があって、左翼の議論が幅を利かせていた。たぶん著者はその種の反権力の思想に共感を持っていたみたい。本書の映画の動向でも、反権威・反権力を志向する作品はできはともあれ、紹介する労を惜しまない。加えて学生などの自主上映運動にも共感をもっていて、そこに映画の可能性をみているし。
そういう世代や思想に基づく共感はよくわかる。とはいえ、それを共有できるわけではないとすると、自分のようにこの本で取り上げられた映画を今となって楽しむのはなかなか大変。まあ、「あの時代」の雰囲気を味わえたので、よしとする。