odd_hatchの読書ノート

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ジェイムズ・ケイン「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(ハヤカワ文庫)

 24歳の若者フランクは、各地を渡り歩き、小銭を稼いだり、警察や土地の者に追い出されたりしながら暮らしていた(こういうのをホーボーというのだっけ。かつては1960年代のヒッピーと比較された)。ふらっと立ち寄った安レストランで亭主に声をかけられ、住み込みで働くことになった。気難しいギリシャ人の亭主には、美貌の妻コーラがいて、フランクはすぐさまいいよる。亭主の目を盗んでsexに励んでいたが、どちらからいいだすともなく、邪魔なので殺そうということになった。2度目の計画でようやく殺すことができたが、田舎の警察であっても担当はなかなかの頭の持ち主で、フランクの計画を見破っていた。

 看守の口利きで名うての弁護士カッツを雇う。最初の裁判で、カッツは彼らの有罪を認めてしまった。驚愕し、動揺する二人はカッツに自白してしまう。しかしそれはカッツの仕掛けたコンゲーム。裁判は無罪になり、二人は家に戻る。フランツはすぐに出ていきたいが、コーラはレストランのビジネスに興味を持つ。退屈なフランツは、コーラの母の葬儀のとき、行きずりの女マッジとメキシコに旅に出た。マッジにあるホーボーの体臭に魅かれて。でもフランツはコーラの元に戻る。カッツの弁護士の部下が自白書を使って彼らをゆすりに来た。二人は不安の日々と、法悦の夜を繰り返す。
 通常は、「ハードボイルド」の小説とみなされる。なるほど文体の簡潔さはハードボイルドみたいだ。自分にはヘミングウェイの影響の強さを感じるけど(一緒に収録された著者のエッセイではヘミングウェイに批判的だったので、おれの推測は間違い)。短いリズミカルな会話、必要最小限の情景描写、ほとんどない内面描写、粗野で暴力的で刹那的な人物の田舎の方言。翻訳からはわからないが、難しい単語はなさそうで、文章も簡潔明瞭。まあ、ハードボイルドの定義を巡って議論するほど、このジャンルにしたしんでいるわけではない(ハメットやチャンドラー、ロス・マクドナルドの御三家を読んだ限りでは、ハードボイルドも探偵小説の枠組みである発端の謎-中盤の捜査-結末の解明を忠実にまもっている。「郵便配達は二度ベルを鳴らす」にはその枠組みにはのっとっていない)が、この小説はむしろアイリッシュの書きそうなサスペンス。いや、当時のハリウッド映画によくあったフィルム・ノワールで、「ファム・ファタール」ものでしょう。小説を読みながら思い出したのは、フリッツ・ラング監督の「暗黒街の弾痕」1937年で、こちらも美女の魅力に逆らえずに破滅に向かってまっしぐらの映画だった。
 天性の風来坊であるフランクは、およそ恋愛には無関心であるようだ。しかし、この場末のレストランでコーラに出会ったとたんに、彼女に魅かれる。その魅力は外見からはわからないにしても、コーラはフランツの運命を決めてしまう。裁判の前の警察の尋問で、二人は互いを裏切る。相手が犯罪を犯したと互いに告発しあうのだ。それは裁判後に、むき出しの憎しみとなって表れるが、それは彼らの愛の強度を高める手段にしかならない。なじり、涙ぐみ、怒鳴り、触れるのを拒否する喧嘩のあと、かれらはベッドで愛を確かめる。フランツの浮気がわかることも、弁護士の元部下から恐喝されることも、彼らの愛を高めるこに利用する。この愚かしい、しかし情熱的な愛を読者である俺は実行することはできないししないが、彼らの訪れる「瞬間」には共感する。若い時の情熱は、行き先知らずでその一瞬にすべてを賭けるような危うさにあって、それゆえの高まりがある。そのような愛はアイリッシュにもあったが、こちらは都会のクールさで孤独を味わうためだった。ケインの小説は南(カリフォルニアが舞台)の熱気があり、汗と体臭と砂の匂いでむせ返るようだ(ほぼ同じころにカリフォルニアを目指すスタインベック怒りの葡萄」があった。同じ不況でも白人と黒人では境遇がずいぶんと違うものだということも思い出した)。
 この小説はヴィスコンティの映画で有名。ほかにも何度か映画化されていて、自分のもっているハヤカワ文庫版では1981年の映画のシーンが使われている。あと、訳者を代えて複数の文庫でもでていた。新潮文庫、ハヤカワ文庫、講談社文庫、集英社文庫光文社文庫などなど。訳者は名うての腕達者ばかりで、どれを選んでも問題はないだろう(ということをかつて翻訳者養成用の雑誌の記事で読んだことがある)。
 というようなことを考えていたら、すでに山田宏一「美女と犯罪」(ハヤカワ文庫)で指摘済みのことばかり。そこに関連して調べると、「フィルム・ノワール」は1940年代前半から1950年代後期にかけてのアメリカ映画に使う言葉のようなので、1934年初出のこの小説に「フィルム・ノワール」を使うのは不適当のようだった。

  

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