odd_hatchの読書ノート

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ホセ・ドノーソ「三つのブルジョワ物語」(集英社文庫)

 ホセ・ドノーソはチリの作家。1925年生まれなので、この短編集を書いた1972年は47歳。著作は若いときからあるが、注目されるようになったのは1960年代ころで遅咲き。その間、西洋、メキシコ、スペインなどの国外生活もしているし、カルロス・フエンテスの家に寄宿していたりと、生活も転々としているみたい。1980年代のチリの軍事政権時代にもしばらく安住していたチリからスペインに移住していた。

チャタヌーガ・チューチュー ・・・ 全編をこのスタンダード・ナンバーが流れているので、聞いておこう。
チャタヌガ・チュー・チュー The Andrews Sisters
www.youtube.com

 歌詞は以下のサイトで確認。歌詞が主題と強く結びついているので、知っておいたほうがよい。
Glenn Miller & His Orchestra - Chattanooga Choo Choo | 南京豆売りの声がする
 マドリッドあたりのスノッブ連中があつまる住宅地で開かれたパーティ。「ぼく」は女たちがみごとにこの曲を歌うのを聴いている。そのうちに、つかのまの一夜を過ごしたいと、妻の知り合いのシルビアに近寄る。彼女は「ぼく」の友人ラモンとも近しいので、ベッドを共にできたらスリリングだろう。浅い眠りにおちたら、シルビアが部屋にいて、さっそく彼女を押し倒す。ナント腕がない。「ラモンがもっていった」という。マネキンみたいだ、と「ぼく」はシルビアを押し倒す。シャワーを浴びたら大変なことに気付く。「ぼく」の一物がない。今夜は妻マグダレーナとの約束があるのに。不機嫌な「ぼく」は家政婦や秘書に当り散らす。妻の頼まれてメイクをしたらシルビアそっくりの顔になる。。そして妻とレストランにいくとラモンとシルビアにでくわす。
 「ぼく」の望みは女を征服し、自分のすきなように操り、好きな時にキスし愛撫すること。そういう男の傲慢さというか権力的な姿も、一物をなくしたらとたんにだらしがなくなって、征服・支配しているはずの関係が逆転してしまう。その時主導権のあるのは支配しているはずの女の側。男は主従関係が逆転しているのにも気づかず(パーティのシーンの役割が逆転している)、ばかをさらすことになる。ブラックで、抱腹絶倒のコメディ。

緑色原子第五番 ・・・ タイトルは主人公の歯科医が画いた絵のタイトル。アトリエにしようと思っている空き部屋がある歯科医の夫婦。あるとき、部屋を訪ねてきた男がタイトルの絵を持って行ってしまった。いかにも自然なふうなので夫婦は見守るだけ。ふっと気づくと盗まれたとわかる。翌日から燭台、文鎮、漆塗りの家具などが持ち出される。夫婦はそれぞれなじってばかり、喧嘩に疲れると自分の部屋に閉じこもる。なにかの暗号めいたメモを見つけ(でもそれは歯科医が書いた絵の別タイトルだよ)、タクシーでそこに行くと、がらんどうの空き部屋に連れて行かれる。タクシーの運転手を身 b体検査すると盗まれた小物が見つかる。でも二人は自分の取り分を得ようと二人で喧嘩を初めて。夫の主、妻の従の関係が盗みをきっかけにどんどん壊れていき、夫のなさけなさが目立ってくる。あと所有に取りつかれて、正常な判断ができなくなっていく狂気。空き部屋はブラックホールみたいで、たぶん現代人の所有したい欲望の現れなのだろうなあ。事件のきっかけは夫がこの部屋のなにを入れるかを妄想するところから始まるのだから。

夜のガスパール ・・・ 全編でラヴェルピアノ曲が聞こえる。「オンディーヌ」「絞首台」「スカルボ」の3つの曲からなるピアノ曲。そのイメージが小説にも投影される(ラヴェルピアノ曲もベルトランの詩にインスパイアされているとので、イメージの系譜は複雑)。16歳の社会や学校や家庭になじめないナイーブで内向的で自閉的な少年。なにしろ女の子が誘いをかけても、ステディになる前に身を引くのだから(いいなあモテるやつは)。で、やっていることはレコード店の視聴室(というのが昔はあった)で覚えたピアノ曲を口笛で吹くこと。この難曲を制覇することが彼の楽しみで、目的。そういう意味のないようなことに熱中して、社会や学校や家庭のうっとうしさから逃れようとする心情はとても共感できる。彼は口うるさい母(離婚して最近この少年を引き取った)から離れるために、町中をうろつく。そうすると、彼を先回りするように視線と同じ局の口笛が聞こえる。それが誰なのかを探すのも彼が町をうろつく理由。母と決定的な喧嘩をしたあと、少年は沼のほとりで自分そっくりの少年を見つける。
 というような少年の思春期のナイーブで、移り気で、目的なく衝動的な感情が書かれる。その一方、彼を養育することにしたスノッブな母(彼女は愛人を家に連れ込んでいる)他の大人たちとの衝突が描かれる。母にしろ愛人にしろ(たぶん学校の先生も)、少年の傷つきやすさや繊細さや興味の持ち方に共感できず、ただ反抗的だとみなして、圧力をかける。つまり「勉強しろ」「たくさんものを食べろ」「もっと他の少年と同じような興味を持て」「素直に大人に返事をしろ」などなど。そういう口うるささが少年をさらに鬱屈させ、彼らからすると反抗的に見えるかたくなさを見せることになる。少年はそのような圧力を乗り越える手段を発見することができた。それは僥倖。でも普遍的なやり方ではないので、僕ら読者は彼の行く末を見守るだけ。


 3つの短編は1972年ごろにかかれたみたい。面白いのは、それぞれ独立していながら、少しずつ関連していること。最初の短編「チャタヌーガ・チューチュー」にでてきたサブキャラクターが次の短編の主人公になり、さらに、という具合。そのうえ、別々の家庭の話でありながら、どの家庭にもプレセン夫人という中年の冴えない独身女性が家政婦として登場(まったく筋には関係しないのだが)。そうすることで、マドリッドスノッブで小金持ちたちのなんとも空虚で、しかし強迫観念と猜疑心の強い、人付き合いが悪く、所有しているもの(家族を含む)を手放さないために汲々としている、保守的で無責任なブルジョアを描くことになる。この短編に登場するこのプチブルジョアをみて笑った後にうすら寒くなるのは、彼らが読者に似ているから。というか、鏡を覗いているみたいだから。
 解説者は、登場人物の主従関係と、狂的なまでのオブセッションに注目。これはそのとおりなので、とくにつけくわえることはない。読んで面白かったのは、このような主題を描くにあたっての技法。中南米文学というと「マジック・リアリズム」という土俗的・民俗的なイメージ、あるいは超常現象のようなありえないことをあたかも実際にあったかのように描く技法に注目が集まる。この短編だとそういう奔放なイメージ(人が翼を生やして昇天するとか、マッシュルームを食べてトリップするとか)はない。舞台はスペイン・マドリッドの高級住宅地で、テレビやラジオ・ステレオなどの家電製品がたくさんある部屋だし、高等教育を受けた連中ばかりが登場する。でも、とてもトリッキーな書き方がしてあって、それが小説をリアリズムともファンタジーともいえないふしぎなものにしている。それは「とりかえ」。最初の短編だと、視点はずっと夫にあったのが、妻にマッサージをさせ、妻の独り言から妻の視点に移動する。最後の短編だと、自分によく似た少年を見つけた少年が、目を閉じている自分によく似た少年の顔を覗き込んでいると、目を開けたら見る/見られるが逆転している。中の短編ではそういうトリッキーな描写はない。こちらだと、空き部屋に固執する夫にとっては空き部屋が世界の全部になって、マンションの外は空虚で無意味で危険なものになっているという具合。その「とりかえ」の文章がとてもなめらかで、すんなりと、自然にかかれているので、読者は催眠術にかかったみたいになって、作者のトリックに気付かない。そして気づいた時には、もう作者の術中から逃れようがなくて、その滑稽でうすら寒く、ドタバタで静謐、小粋で暴力的、上品でセクシャルな小説世界に取り込まれているのだ。この書き手はただものではない。